管理人あいさつ

みなさん、こんにちは。この記事は本ブログ「未来ノート」のプロローグとなっています。他の記事を見る前に、ぜひここをご覧ください!


かつて40~50年くらい前の日本は、何か情報、特に専門的な学術関連の情報は、町の図書館で本を探して見つけて得るしかそうする手段はありませんでした。規模の小さな図書館にない場合は、隣町の、それもより大きな町の図書館へと行き、更にそこにもない場合は…という状態だったそうです。また、ニュースなど、慌ただしく流れる情報は、図書館に収めようがないので、テレビ放送という形で流されており、それを半永久的に保存したい場合に関しては新聞記事を頼るという状態でした。

しかし、今から30年前に端を発するIT革命を経て、時代はメディアや知識人が一方的に情報を発信する方式から、一般人とメディア双方が情報を流しあう双方向発信の形式の時代へと変貌しました。今、私のような一般人がこうしてGoogleのサービスを利用して「未来ノート」を書くことが出来ているのも、元はと言えば、双方向発信が普及したからです。

そして、双方向発信の普及が何と共にあったかと言えば、それはやはりSNSの台頭でしょう。SNSは日本語では会員制交流サイトとも呼ばれ、FacebookやTwitterなどが代表的です。これらのサイトは、使う人によって本当に用途は様々で、日常的な趣味の話題から、広く社会に関わる論争まで扱われており、このGoogleのブログサービスだってそうです。そしてそれ以上に、こういったSNSによる双方向発信で重要な点と言えば、アカウントの匿名性にあります。

よく考えてみれば、一方向発信の時代に情報を発信していたメディアでは、多くの場合取材した記者や原稿を読み上げるキャスターの名前が公開され、図書館にある本も必ずそれを表した著者名が当然のことながら書かれています。もちろん、ペンネームはありますが、一方で現代の双方向発信の時代におけるSNSでは、そうした原則が打ち破られ、恐らくこれまで発信することができなかった多くの「一般人」は匿名で情報発信を行っています。私もそうです。

少し話題を別にしましょう。何はともあれ、これらのIT革命により情報の双方向発信化が実現したことによって、多くの人が恩恵を受けたのは確かな事です。SNSを使えば、一般人が著名人と交流出来、一般人でも情報を拡散する影響力を少なからず持つことが出来るようになったわけです。つまり、情報発信の自由化、あるいは民主化が達成されたと私は解釈します。これは歓迎すべきことです。今まで情報発信の権利は全てメディアや大学の知識人、著名人に独占されていたのが、広く平等な権利として一般化されたわけですから。また、情報を受信するという作業も、格段とコストの低いものになったと感じます。インターネットやSNS上には、自分が求めたい情報を引き付けられる便利な機能が用意されました。また、サイトからサイトへと直接ワンプッシュで移動できるハイパーリンクは、画期的な発明だと言われているようです。

しかし、我々は何をするにしても、「自由」には「責任」が付いて回ることを決して忘れてはいけません。歓迎すべきはずだった情報発信の自由化は、この「責任」を自覚しない者たちの存在により、大きな弊害を生むこととなったのです。それは、既定路線だったのかもしれないのですが。

SNSでは、その匿名性を活かして、多くの利用者が募られてきました。何を言っても、自分の本名や個人情報が明らかにならないので、リアルな場よりもより自由な、踏み込んだ発言が出来るのです。でもそれを悪く言えば、誤った情報や、偏った情報などを発信することも可能という訳です。ただし、この場合、その「匿名性」は「見かけの」匿名性だということに気づかされます。

この見かけの匿名性と免責性に惑わされて、誤った情報や偏った情報を意図的または無意識にとか関係なく発信する者がいるせいで、インターネットないしSNS上を流れる情報の信用性は、テレビやラジオなどの公共の電波で発信される内容より正確性や中間性が著しく低いのです。こういった正確性と中間性が低い情報が、アンリアルな世界にはびこることで、インターネット利用者は、健全な情報活用が出来なくなってしまっているのが、IT革命による悪い結果、現状と言えます。

こうした利用者を欺く情報は二種類に大別できます。一つは、事実自体が存在しないような「誤情報」、横文字でいうとフェイクニュースとでも言うのでしょうか、近年社会問題になってきているやつです。社会問題化したので、こちらの方ではその誤情報対策の進歩がみられる状況に見えます。もう一つは、扱われている情報は正しいのだけど、著しく重要なピースが欠けているせいで、受信者に誤解を与える可能性がある「偏向」です。

例えば、メディアなどが、社会で意見が二分される問題で、片方の意見や根拠のみを取り上げてそれが正しいと報じるといったものは、偏向報道にあたります。また、個人がSNSで、とある特定の人のスキャンダルを取り上げてそれだけで人格否定を行う(そもそも人格否定は何であっても許されはしないと思いますが)のも、広義でここでは「偏向」と言いましょう。とにかく、正確な情報だということを言い訳にして、人に偏った認識を与えるという欺瞞が、故意でも無意識のうちでも、インターネット上では行われているようです。

現在の混迷とした情報社会を生き抜くには、この「誤情報」「偏向」二つの悪玉菌対策を組み立てていかねばなりません。インターネット中の真実を追求するにあたっては、誤情報かどうかを篩にかけるファクトチェックや、多数の同じことを報じている報道社の記事を見て、偏向なく情報を整理することが求められてくるのです。

そして一方で、誤情報や偏向に洗脳されないように、あえてインターネットとのつながりを断つのは、あまり良いことだとは思いません。それだと結局真実を解明する能力も持てないどころか、情報を取り敢えず得てみようとする目的も達成することができず、本末転倒になってしまうのです。「洗脳」されないように情報を整理して、個々についてファクトチェックなどの作業をしていけば、インターネットの中で迷子になったり、情報を無意識に信じ込んでしまったりなどということを防ぐことができるのです。

もちろん、正しい情報を得ようとする確実な手段として、従来の手段であったアナログ的な方法もありますが、私個人的には時代の流れはデジタルに傾いていると考えます。やはりデジタル世界とのつながりを断つというのは、時代に逆行すると考えます。インターネット上は怖くリスクもありますが、そんな中で、智を求めることを諦めてはならないのです。


「未来ノート」では、こうした情報社会のリスクを十分に考慮しつつ、出来る限り正確で中間的な情報を踏まえた私自身の物事に対する見解を提示していこうと考えます。ですが、私としてはここで提示してきた意見の根拠となる情報に関して、その正確性や中間性を保証はできないし、私もすべてに自信があるわけでは実はありません。とは言え、不健全な今の情報社会を何とか清浄化したいという思いで、この未来ノートを綴っています。未来ノートには、コメント欄を用意して、そこでの議論も図っていきたいと考えています。正しさは誰か個人の言ったことではなく、集団で議論されてようやく篩い出されるものだと、私は信じています。



プロローグとして述べることは以上になります。本ブログ「未来ノート」の運営方針については、このリンクをご参照願います。


それでは「未来ノート」を楽しんでください。

(2021.4.25)
(2021.11.30改訂)

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