2022年2月14日月曜日

多数決文化との決別【未来ノートコラムA・第12回】

多数派がいつも正しいとは限らない、それはいつだって

 小学校の算数の授業で、アナログ時計は一日に何回長針が短針を追い越す(=重なる)かという問題が出されたという。選択肢は、21回、22回、23回、24回、25回の5つであった。

当然ながら、答えは22回である。算数的なテクニックを使えば2秒で求まる問いだが、冷静に一つずつ考えてもそう時間はかかるまい。午前中は、まずいきなり0:00に追い越しが行われ、次に1時台には1:05頃に追い越し、2時台には2:11頃に、3時台には3:16頃に、4時台には4:22頃に………と続いていって、10時台には10:55頃に追い越しが行われる。そして次の11時台だが、11時以降の短針と長針との追いかけっこは、正午12:00に決着がつく。この時点で、もう時刻は「午後」に入っているため、これは午後に行われた追い越しとカウントされる。よって、11時台には追い越しが行われず、午前中に行われる追い越しの回数は11回。これが午後も行われるわけだから、11*2=22回が正解だ。

しかし、当の小学生たちには、このような考え方がとても難しかったようだ。聞くところによれば、その授業の中でちゃんとした答えを選べたのはたった一人のみだったという。そして、最も多かった誤答は「23回」で、彼らはアナログ時計が半日で一周するという仕組みを思わず忘れるのなど、冷静な思考を怠ってしまったようだ。

だが果たしてそれだけが「正答者一人」という状況をその教室で生み出したかとなると、そうは考えられない。実は、教師が生徒に解答を尋ねる際に、教室にいる生徒に「21回だと思う人?」などと呼び掛けて、挙手をさせていたと聞く。その中で、自分の考えに自信の無い人は、自然とより多くの人が手を挙げる「23回」が正しいと思ってしまった。だからこういう現象が起きた。

とまあこういう話である。

まあ結局、私がこの例で何を示したかったかと言えば、ずばりそれは多数がいつも正しいとは限らないよねということだ。

いや、さすがに算数や数学の問題で多数が正しくないこともあるとか論じるのは当たり前過ぎてアホらしいだろう、と思うかもしれない。

では、算数や数学以外ではどうだろうか。よく小学校で「多数決」を採る場面と言えば、例えば「今度の学園祭でクラスとして何をしようか」「今度の業間休みは何で遊ぼうか」などなど、かなり多くのものが想像される。そして、これらの議題にしても、算数や数学の授業と同じで、「多数が正しい」という常識が通用するとは限らないということを、おわかりいただけようか。

上記に挙げた「今度の業間休みは何で遊ぼうか」の問い。あるクラス30人でその投票を行った結果、ドッジボール10人、警泥20人で、警泥をすることにした。ところが、ある一人の男の子が泥棒は嫌だと言い出し、彼を他のクラスメートが説得している間に業間休みが終わってしまった。結局大勢が警泥をやった方がいいと思ったのに、警泥をやろうとした結果、非常に後味の悪い出来事が起こってしまったのだ。

このように、「何で遊べば皆が楽しい時間を過ごせるか」という問題にしても、「警泥をやったとしてどのような出来事や問題が発生するか」など後先のことを合理的に考えれば、実は大勢の人が良きものと考えていた物事が、他方の選択肢よりも劣っていたことが判明する可能性があり、この場合においても「多数派が正しい」なんてことは信用ならないということに気づかされる。

もちろん、小学生に「後先ちゃんと考えろ」など、こんな合理的な思考を要求すること自体滑稽なことだし、結局多数決でクラスとして何をするかを決めることになるのは、彼らにとってはいちばん高効率なことであるから、仕方ないことだ。しかし、今の例のような、こうやって多数決を採ったことによるクラス行事の失敗が、算数の答えを多数決で訊いて誤答を導くことと同じ系統上にあることを理解して欲しい。

そして、小学生のうちから、児童にあらゆることを多数決で決めさせる教育が、現在の多数決偏重文化を醸成させていることに関しては、懸念を申し上げなければならない。


多数決偏重文化とは

まず、大前提として、あらゆる「正しさ」を決めるうえで、「多数決」という制度が、非常に不合理なものだということは、さすがにお分かり頂けただろう。もう少し正確に申し上げれば、「多数決で決まったことが正しい」「多くの人が付いている物事がきっと正しい」「少数派は多数派よりも誤っている」とするような文化・風潮、それらが非常に危険な性質を帯びていることを認識してほしいのだ。ちなみに、これらのことを、以下は「多数決偏重文化」としよう。

なお、現在の日本や世界の民主政治の根本を為す選挙制度や議会制度は、この多数決制度に基づいているが、こういった制度的な問題に限らず、これが日常のあらゆるところに顕われているからこそ、これを「多数決制度」とは呼ばず、「多数決文化」と呼んでいることに留意して欲しい。

具体的に、どのような「多数決偏重文化」が我々の日常に顕われているのだろうか。一つ今回私が想定したのは、インターネット世界である。

インターネットやSNSでよく見かけられるのが、「いいね」「悪いね」「★★★★★」など、或るコンテンツに対する自分の評価を示すことが出来るシステムである。そして、大勢が示したそれぞれの評価は、原則的に一般に公開される。そうなると、世の中では、「このコンテンツは良いよね」「あのコンテンツはダメだね」と、社会的な評価が形成される。この時、「いいね」「悪いね」ボタンを押す人は、誰もそのボタンを押した理由などを述べる必要がない。つまり、不合理にも自分の主張(評価)を押し通すことが出来るのだ。

コンテンツの提供者が、このような評価は理不尽だと思っても、「悪いね」が多く、「いいね」が少なければ、そのコンテンツは「悪い」「よくない」という社会的な評価が付いてしまう。これは、合理的な思考を省略して物事の善悪や正誤を決定していることになる。

「いいね」機能はYouTubeやTwitter、Yahoo!ニュースなど、様々な媒体に備えられているが、これらは上記の性質上深刻な問題を現在進行形で引き起こしているのではないかと思われる。

その一つが、デマ・誤情報の拡散である。デマや誤情報、ミスリード情報などを発信するインフルエンサーは、彼ら自身も当初は正しい情報を発信しているのだと思い込んでいる。そして、その発信したコンテンツに対し、その情報を信じる者からのものを中心とした高評価が示されれば、「多くの人の支持を得ているのだから、自分の行いは正しいだろう」と感じて、それに基づく更なる誤情報が発信される虞もある。

これにより、インターネット上の広範囲で、デマや誤情報、時にはまことしやかな陰謀論が、本当に正しい情報かのように出回る現象が多数発生しうる。私は昨年多くのトランプ支持者、Qアノンの言説を耳にしてきたが、それもこの範疇に入る。彼らが情報をためらいなく発信できるのは、彼らにはいつでも高評価を示してくれる多数の支持者がいるからだ。しかし、その「多さ」は「正しさ」とは全くの無縁である。

また、逆に、ある情報を発信したり、コンテンツを提供したりする人がいても、彼らに「悪いね」評価が高く付けば、社会的には「悪い」情報やコンテンツということになってしまう。そうなると、このインフルエンサーは、その社会的評価に迎合するものしか提供したくなくなってしまう。これは、言説やコンテンツを或る範囲内に拘束することを意味する。もし、この「社会的評価」が本当は誤ったものであれば、これはインフルエンサーを間違った方向に導いていっていることになる。これは非常に憂慮すべきことだ。

今挙げた例のごとく、何か「正しさ」を判定するうえで、我々の根底にある「多数決で決まったことが正しい」「多くの人が付いている物事がきっと正しい」「少数派は多数派よりも誤っている」とするような意識が、社会全体に及ぼす悪影響というのは看過できない。なぜこれらが社会に良くない影響を与えるかと言えば、当然この命題が偽であるからだ。

しかし、少なくとも今の日本社会には、この事が無意識に「常識」として人々の精神に刻み込まれてしまっているのではないか。


多数決的な教育からの脱却

ここからは、私の個人的な印象に基づく見解になってしまうが、現在の日本の初等教育から行われている、「先生が介入しない話し合い」を通した、言わば民主主義の土台作りのような教育なのだが、そこで児童たちは、最終的に二つ以上の対立意見が出た場合、すぐに多数決で決着を決めようという方向に持っていってしまう。

ただ、その様子を見ている先生はこんな場合には、これを止めるないし本当にそれでいいのかと問いかける必要があると私は思う。そうしなければ、児童は正しい方向に進まないし、多数決がいつも正しいとは限らないということを学べない。幸いにも、先ほどの警泥みたいな、何か反例のような「多数決による失敗」があればいいのだが、もちろん「多数決は正しい時もある」ので、誤った成功体験を得てしまう可能性もあり、そこが私にとっては気がかりだ。

幼い時から、多数決を中心に話し合いを進めてきたことにより、なぜか「多数こそが正しい」という目に見えない意識が心の根底に芽生えてしまうからこそ、それが現代のネット社会のなど様々な問題点に発展していることもあり、この現代教育の欠陥は修正した方がいいのではないか。

では何が児童にとって望ましい民主主義教育かと言えば、それは熟議する話し合いを通じての教育だと私は考える。そもそも話し合いとはなぜ行われるのかと言えば、それは最も全ての人に平等且つ有益な結果をもたらす結論にたどり着くためのはずである。これを成し遂げるには、合理的な思考で結論を導くのが重要で、これを集団で促すには、互いの意見を交換し、持ち帰り、論戦することが軸となって来る。現に、一連の行いは、現在の日本の国会や議会でも為されている。もちろん、屡々強行採決も採られる一方で、野党側も同意するほぼ全会一致で定まる法案・決議案なども少なくない、むしろ多い方だ。

これを十分に簡素化して、小学校でも、「最後は多数決」ではなく、「最後は全会一致」で結論がまとまる話し合いを、教育には積極的に推進・実践してもらいたいものだ。

また、多数派に流されないような人材を作るのも、教育の重要な役割だ。本当に知的な人は、妥協も反駁も知っている。実際は正しい主張をする人が1人、対して実際は間違った主張をしていた人が99人いたとして、両者が議論した場合、そのたった1人正しい人が知的であれば、知的ではない99人の思考を覆すことも可能である。これにより、合理的な結論へと至れる。そんな人が増えれば、社会全体が前進する。


単純な自陣の数の多さを自らの正しい根拠にするという思考は、人々や社会に直接表面的に表れてはいない。むしろ、心の中に静かに多数決偏重文化は眠っている。しかし、その心から発生する言説や行動は、その文化が心に宿っていることを見聞きしている人に感じ取らせる。この問題は、今現在社会で懸念されている多々の社会問題の根本に関わってきているようで、改善されなかった場合は、上記のような普及して10年20年しか経っていないインターネットやSNS社会の行き詰まりもあり得る。非常に今私が注目している観点なので、ここに論じておくことにした。

(2022.2.14)



2 件のコメント:

  1. このブログに何度もコメント入れようとしたのですがエラーになってしまいました

    前回エラーになった文をもう一度書きます

    このブログは、読者の年齢層と関心事の範囲に入らないと、今はなかなか読者が来にくいのかもしれませんが、
    執筆者のレベルは高いので、大学で周りに政治に関心のある人が集まれば、ちゃんと読者は来ると思いますので、落ち込まずに続けてほしいと思っています。
    昨年私も他のことに気が取られてて、なかなか来れなくて申し訳なく思っていましたが、本当に面白く読ませてもらっているので、今年は夏休みや冬休みに必ずまた来ますね。
    私はこのブログ主さんには、ずっと期待しているし、将来の可能性を秘めた人だと、かねてから思っているので、ブログはぜひ続けてほしいな、と、思います。

    渡部昇一氏は、新聞やTVを批判できるような原論人になる(新聞記者よりも多くの知識を身につける)には、最低でも3000冊の読書が必要だと言っているので、実際に国の政策に提言をしたり、言論人として食べていけるようになるのは、本当に大変なんだと思います。
    私などはYou Tube大学のような言論は、浅すぎて見ないのですが(知名度だけであの視聴数を稼げるのはすごいと思いますが)個人的には、You Tube大学よりも、このブログを読む方が断然面白いと感じます。
    私も言論人のメルマガを何件か購読していますが、やはり、「お金を払ってでも読みたい」メルマガは、そんなに多くはありませんし、私がお金を出してでも、取っているメルマガの言論人はみな50代以上です。深田萌絵さんや我那覇さんのような若い人の本なども時々買いますが、定期的に読んでいるのは年配の言論人です。
    なので、勉強を重ねないと、なかなか読者を満足させる記事を書けるようになることは難しいのだろう、と思います。
    昔の教え子で、東大に合格した後、ブログで読書紹介や本の感想などをあげている人がいますが、本当に優れたブログだと関心するけど、レベルが高くて、なかなか読者がついていない人もいます。
    彼の場合は、小説家志望なので、そのうち面白いものを書いてデビューできればいいな、と、見ていますが。

    ただ、政治についての言論は、そもそも読者層が狭まるし、最近は、ネットができて、新聞やTVのコメンテーターの解説では満足できない人も増えているので、テレ東ビズなどのコメント欄を見ても、視聴者の目はとても厳しくなっているのだな、と感じます。
    ニュース番組が視聴者を確保することの難しさを感じます
    政治言論で生きていくのは難しい時代になっていると思いますが、
    あなたなら、努力重ねて行けば、きっと影響力のある言論人になれると思っています。
    言論以外の別の仕事に進むにしろ、言論人を目指すにしろ、応援しています。

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    返信
    1. コメントありがとうございます。
      私としては、このウェブログを管理するにあたって、どれくらいのアクセス数があって、あるいはどれくらいの人が読んでいるのかというデータは、現時点ではあまり気にしていません。それよりも、私の「未来ノート」で提示した言説や時事に対する見解が、全世界に公開されているという「状態」が重要なのです。
      どれほどの人気を作れるか、人々の関心をどれほど集められるか、これは未来ノートの最終的な目標ではありません。YouTubeのクリエイターたちには、登録者数や視聴者数に合わせて収入が入ることがあるでしょうから、そういう観点も重要になって来ようと思いますが、当然ながらこの未来ノートは書いても書いても収入など一銭も入りません。確かに、自分の考えをより多くの人に共有してもらえることには一定の価値があります。ただ、逆に読者が増えれば更に更に人気を集めようとして、自分の本来目指していた方向性とはいつの間にか異なる状態になってしまうなんてことが今度は懸念されますよね。
      それこそ「多数決偏重文化」という風潮の弊害なのですよ。残念ながら現在のインターネットの仕組みはそれを助長するシステムで主に構成されています。新聞は紙面が限られていて、テレビは使える電波が限られている一方、インターネットは無限に広がる空間の中に無限に情報を設置することが出来ます。だから表面的に見れば視聴者が新聞やテレビからインターネットに「流出」するのは必然的なことです。しかし、それには記事やこのコメントに示したような大きなリスクがあるということをきちんと認識するという前提を持たなければ、インターネットの敗北者となってしまうでしょう。
      新聞やテレビの長所と短所は、インターネットのそれの逆となります。

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