2023年2月24日金曜日

ウクライナ侵攻開始から1年 「不当な平和」を考える【未来ノートコラムB・第15回】

 本日2月24日は、昨年のこの日、ロシアがウクライナへ侵攻を開始してからちょうど1年が経つ。現代において稀に見る国家と国家との間の全面戦争。その実態は、カメラを通して平穏な日々を過ごす日本の我々にも届けられた。私も含め、人々が戦争と平和、あるいは自国と世界の安全保障について大きく考えさせられるきっかけとなった。

ロシアは当初広い方角からウクライナ国土の占領、そして非武装化すなわち全面降伏を図ったが、開戦初期の両軍の作戦の成否など様々な要素や、欧米などのウクライナへの支援によって、ウクライナは当初占領された地域の一部奪還に成功し、現在戦線は膠着状態だ。一方、ウクライナとロシアとの和平交渉は、戦争開始直後から何度も行われてきたが、停戦・和平が締結されるには全く至っていない。

戦争は1年経った今もなお続いている。我々はこの戦争、いや現在進行中の歴史の出来事から何を学べばいいのだろうか?その答えにたどり着くためにすべきこととは何なのだろうか?少しでも賢明な答えを見つけるべく考えていく。


開戦に至るまでの経緯、開戦前の米国の警告について

前提として、この戦争はロシア・プーチン政権によるれっきとした侵略戦争であることを確認する。プーチンは、開戦当初、自国の軍事行動の目標を「ウクライナの非軍事化、非ナチ化、中立化」と説明していた。確かに、プーチンが対外的に説明する今度の軍事行動に関する言葉のみを読み取れば、国際法で認められる範疇に解釈することは不可能とは言い切れない。しかし実際のロシア軍の行動は、プーチンの説明には含まれない、ウクライナ領土の占領や、ウクライナ政府自体の転覆を目指すものだった。まずこの時点で国際法規に反する「侵略戦争」と認定される。そしてその戦争行動自体を、プーチンが能動的に実行しているので、開戦の責任も当然ロシアにある。

米国を始めとする西側諸国は、ロシアがウクライナに侵攻する可能性を、開戦数週間前から指摘・警告していた。2月5日(侵攻約2週間前)には、米国当局は「ロシアはウクライナ侵攻の準備を完了し、首都キーウを2日で陥れることが可能になった」との分析を公表している。これは、ロシア軍がウクライナ国境沿いに配置している戦力が、著しく拡大していることを観察したという根拠に基づいている(参照)。この時点で10万人以上のロシア兵力が国境沿いに集結しており、これは一般的に異例の規模のものである。恐らくもうこの時点でロシアは侵攻を決意していたのではないかと推測される。ロシアは当時この兵力規模について、軍事演習であり撤退の予定があるとしていた(参照)。しかし、その姿勢とは裏腹に演習は20日(侵攻4日前)には延長され(参照)、そしてついに演習は終わることなく、ウクライナ侵攻の兵力となったのである。

一方、侵攻数週間前から為されて来た米国などの、ロシアによるウクライナ侵攻の可能性の指摘・警告は、様々な界隈からそれに対する疑念が呈されて来た。まずロシア自身がその侵攻の可能性を否定し、危機感をあおる米国がロシアへの制裁強化の口実を作ろうと目論んでいると反論していた(参照)。また、ウクライナ側も、ロシアの行動を警戒しながらも、米国が持つ危機感を「不適切」なものだとした(参照)。日本国内でも米国の警告や主張に疑義を指摘する言論が少なからず存在した。

ところが、米国の警告は概ね正しかった。確かに当然、国際政治学的観点から見た時、ロシアの侵攻がロシアに対し利益を生み出すことは普通考えられず、ロシアが戦争を計画するなど不合理であり、有り得ないとした説には説得力があった。一方、軍事的な観点からロシア軍を観察した時、侵攻開始前のロシア軍の兵力・配置は異例のものであると分析されており、国際政治的観点から見た時の不合理さを差し置いて、ロシアによる侵攻の可能性が高いと事前に予測し、論じることは十分可能であったのだ。

ロシアによる侵攻の可能性を見抜けなかった層には、米国に対する強い不信感もあったのかも知れない。日本においては、もともと反米的左翼の論調だった者や、イラク戦争で、米国の情報や正義に対して幻滅した者などを中心として、今度の米国の公表した情報についても、米国の策略を疑い、あるいはロシア側の反論を肯定する者もいた。しかし過去の誤りを根拠に、現在においてもその誤りの存在を推定するのは、言論人にとって非常に冒険的な行動である。事実、今回のウクライナ情勢に関しては、ほとんど米国など西側の情報が正しかったのである。


プーチンの戦争目的について

プーチンが開戦当初に説明した軍事行動の目的は「ウクライナ東部ロシア系住民保護のための『ウクライナの非軍事化、非ナチ化、中立化』」であった。もちろん当然これは紙面上の大義に過ぎず、実際のロシア軍のウクライナ政府転覆や領土の占領を目指した行動はそれとはかけ離れている。

私はプーチンの戦争の目的を考える「候補」として、次の三つを挙げる。一つは「ロシア系住民の保護」、もう一つは「NATO拡大の抑止」、さらにもう一つは「領土の拡大」だ。

まず一つ目の「ロシア系住民の保護」なのだが、たとえ自国系住民のことであっても、これまで強権的統治を執ってきたプーチンに人権を重視するような倫理観があるとは考えづらいので、プーチンがそれを目的としているという可能性はひとまず下がる。あるとすれば、ナショナリスト的な感性に基づく行動だとも解釈できるが、一旦論じるのは置いておこう。

次に二つ目の「NATO拡大の抑止」だが、これは可能性としては五分五分で、何とも言えないと思っている。というのも、既にNATO加盟国であるバルト三国のうち二国(エストニア、ラトビア)はロシアと国境を接しており、今更ウクライナのことで自国の周辺までにNATO拡大がされることに非常な拒否反応を示すのはやや不自然である。また、今回のロシアの侵攻によって、ロシアと国境を接するフィンランドが軍事的非同盟の立場を転換し、NATO加盟を申請した。さらにその隣国スウェーデンもNATO加盟を申請しており、もしプーチンの目的が真に「ウクライナの中立化」にあるのだとすれば、一つの国のNATO加盟を阻止しようとして、二つの国のNATO加盟への道をもたらしたことになったという皮肉が発生する。それはさておいても、ウクライナの中立化のためだけに結果としてではあるがこのようなリスクを取るのはいささか不自然さがある。もちろんNATO加盟国が周辺に増えるということは、自国の内部へ、米国の影響力や民主化の影響が及んで来て自分の体制を揺るがす可能性も否めないので、少しでも周辺国のNATO加盟を阻止したいとの考えはあるのかも知れない。ただし、国際政治上、NATO加盟は各国の自発的な動機に基づくものであり、これの阻止のための軍事行動が正当化されることは当然ながらあってはならない。

最後に三つ目の「領土の拡大」だが、これがいちばん可能性があり、考える上で合理的なのかなと感じている。最近のことで言えば、プーチンは23日にモスクワの官製集会で戦争について「歴史的領土のための戦い」と言及しており(参照)、プーチンのナショナリスト的欲求に基づく領土獲得のための古典的な侵略戦争と見ることができる。この集会での発言は、あくまでナショナリズムを用いて国民の支持を呼び掛けるものに過ぎないとは思うが、ウクライナ東部の州を「分離独立」させた後「併合」しており、現在はキーウ攻略を諦めて東部の確保に戦力を投入していることからも、当初から侵攻の目的の主眼はそちらだったと考察できるのだ。

まとめると、現時点で考えられることとしては、いちばんプーチンの目的である可能性として適切なのが「領土の拡大」、次いで「NATO拡大抑止」であり、「ロシア系住民の保護」に関しては、プーチンのナショナリスト的欲求としてはあるが、人権的な動機である可能性は非常に低いと推察される。

なお、昨年3月に私が出した考察記事の内容で、本記事と矛盾するものは、全て更新・撤回されるものとする。


ウクライナ和平について

ウクライナ侵攻開始1年に合わせて、国連の緊急特別会合が開催され、各国政府の代表が演説する中で、日本の林芳正外務大臣は次のように演説で述べた(抜粋|参照)。なお、太字は管理人による。

193 Member States in this General Assembly hall represent 193 different positions. Such diverse views, I believe, can converge on one specific point. We all want peace in Ukraine – or at least, the overwhelming majority of us want peace in Ukraine. This draft resolution is about peace.

However, peace must be based on principles. Hostilities must stop now, but this would not necessarily produce a comprehensive, just and lasting peace.

Imagine yourself. What if a permanent member of the Security Council launched an aggression against your homeland, grabbed your territory, and then ceased hostilities, calling for peace?

I would call it an unjust peace. It would be a victory for the aggressor if such actions were tolerated. It would set a terrible precedent for the rest of the planet. The world would revert to the jungle, where brute force and coercion would prevail. ―――林芳正 国連総会演説、2023.2.24

和訳は以下の通り(外務省仮訳)。

(和訳)この総会議場にいる193の国連加盟国は、193の異なる立場を代表しています。かくも多様な意見も、ある一点においては一致し得ると私は信じます。すなわち、我々はみなウクライナの平和を望んでいるということです。少なくとも、我々のうち圧倒的多数はウクライナの平和を望んでいるのです。これは平和に関する決議案です。

しかしながら、平和は原則に基づくものでなければなりません。敵対行為は今すぐにでも停止すべきですが、それは必ずしも、包括的、公正かつ永続的な平和をもたらすものではありません。

想像してみて下さい。もし、ある安保理常任理事国があなたの祖国に侵略を開始し、あなたの領土を奪取した後で敵対行為を停止し、平和を呼びかけてきたとしたら、どうでしょうか。

私はこれを不当な平和と呼びたい。このような行為が許されるのであれば、それは侵略者の勝利となってしまうでしょう。地球上の他の場所においても悪しき前例を築くものとなります。世界は、野蛮な力と威圧が支配するジャングルと化すことになるでしょう。

林外相は(というより日本は)、「平和」という言葉が時に誤謬を含んでいることがあると指摘している。

「平和」という言葉は、いつだって崇高で理想的な言葉に聞こえる。だからこそ現状、ウクライナにおける即時停戦を求める国や声がある。しかし、今のウクライナにおいて、「即時平和」のために、あるいは「これ以上の犠牲者を出さない」ために、即時停戦・和平を行って、従来のウクライナ=ロシア国境よりもウクライナ側に停戦ラインを引くというのはどういうことか。それは、結局ロシアに「戦果」を与えることを意味する。それがロシアの当初の目論見よりも少ないものだったとしても、侵略による利益を認めることになってしまうのだ。停戦後はロシアは占領地のロシア化を進めるだろう。安易に「平和」という言葉を用いれば、侵略戦争による利益を暗に認める世界を作ってしまうことに、我々は気づかなければならない。そのような世界のことを、林外相は「野蛮な力と威圧が支配するジャングル」と表現し、そのような世界における「平和」のことを、「an unjust peace不当な平和)」と呼んでいるのだ。

これはウクライナ以外の、一般論においてもそう言うことができると私は考えている。そもそも国際法規が、各国に軍備をすることを認めているのは、もし侵略戦争をされた時に自国を防御するためだ。侵略が存在する限り、軍備を持たないことが、交戦しないことが、いつだって理想であるとは限らない。近代史上、日本は、侵略戦争を含む一方的に始めてしまった戦争がある一方、侵略から防衛する戦争を経験しなかったため、戦後の教訓では、全てにおいて交戦行動を否定する論調が長らく主流であった。だが、このような論調は日本に限らず常に、世界に「不当な平和」を作り上げるリスクをはらんでいる。不当な侵略を受け、自国民を殺され、領土を奪われた後の平穏をも、「平和」と呼んでいいはずがない

ウクライナ侵攻開始1年に合わせて、中国国家主席の習近平は「平和演説」を24日予定することになっている(参照)。だが、中国政府の提示するような和平案が、ウクライナがボトムラインとして求めるような「侵攻前の領土回復」などをば含んでいないのであれば、それは侵略者の利益を容認させようとしていることを意味する、まさに偽善的なものになるだろう。

反米的な論調は、米国が兵器産業の利益のために、欧州と連携して、ウクライナへの武器支援を継続し、戦争を混迷化・長期化させていると批判している。しかし、ウクライナの領土奪還率は現在のところ5割程度であり、ウクライナが最低でも求めている「侵攻前の領土回復」などが達成される、つまり侵略者の利益を認めないレベルでの和平を実現するには、まだウクライナの反攻は足りていないのが現状である。だからそのために欧米はウクライナに支援を続けている。それはウクライナにとっても、本当の意味での「世界平和」にとっても、非常に必要だとされていることなのだ。少なくとも侵略者の利益を否認できるまでの反攻で、初めて和平ができる状態になる。それまでの和平交渉は、真の平和の意味を考えても何も価値あるものを生むことが出来ない。そのようなことを林外相も言いたいのだろう。


構造的リアリズムは、国際関係を国家を主体としての力の均衡によって説明する。ただこれはあくまで世界が「無政府状態」的な状況、つまり集団的な安全保障が機能しないという前提の理論である。現在の国際連合の安全保障システムは拘束力に欠陥がありながらも、ある程度の機能を持っており、またNATOなどの地域安全保障機構の存在や、現在今まさに行われているウクライナへの武器支援など、局所的な安全保障システムが機能している場合もある。このように、現在の世界は国家を強力に拘束する要素が存在しないという意味で「無政府状態」をベースとしながらも、随所に秩序が生成されている状態に変化しつつある。であるからして、現代の国際政治学では、構造的リアリズムのような、国家の力関係のみによる国際政治の説明は不完全とされるという意見が、主流の座を占めつつある。

その代わり、それを補完するために注目されるべきなのが、国家内部の倫理観という概念だ。歴史上戦争を繰り返していた欧州大陸が第二次大戦後、そして冷戦後に安全保障的な意味で統一されたのは、それぞれの国々が「民主主義」といったような価値観を共有したことにより、構造的リアリズムの言うところによる「バンドワゴン」が力の変化無くして自然と選択された故と解釈することが出来るが、これは構造的リアリズムの対極に位置する理想主義の一つである「民主的平和論」が、欧州という限られた地域のなかでのことではあるものの実践されたことを意味する。また、今度のロシアによるウクライナ侵攻に関しても、ロシアが欧州と決裂する意思を持ったのは、欧州との価値観の差異によるものと解釈できる。

もっとも注意しなければならないのが、「民主的平和論」が国際政治を説明するにあたって適切かと言えば、これもそうではないということだ。国際政治学者の高橋杉雄氏は、昨日Twitter上で以下の仮説を述べていた(参照)。

(前略)そもそも、「パワー」だけで因果関係を説明しようとするのも、「アイデンティティ」だけで因果関係を説明しようとするのも「価値」だけで因果関係を説明することもできない。人間社会にはそれらすべてが併存し、人間の営みに作用しているのだから。

結局のところ、国際政治学におけるイズムというのは「ものの見方」であり、イズムに内在する論理だけでイベントを説明しようとするのは無理がある。それがベネットたちがラカトシュや科学的実在論を援用しつつ因果メカニズムを重視してきた理由であり(続く)、

フォーマルセオリーを含む定量手法が国際政治学の中心になっていく中で、イズムと離れた形で定性手法を再建させようとして進んできた道なのです。(後略)―――Tweets by @SugioNIDS, 2023.2.23

正直難解なので私も後半部分は詳しく理解できないのだが、少なくとも、今度のウクライナ侵攻の出来事を説明するにあたっても、構造的リアリズムが事象の説明の全てにおいて有用ではないということが理解できる。世界は、前世紀の今の比べれば、少しずつではあるが力による支配・関係から脱却しようとしている。にも関わらず、この構造的リアリズムの論理のみに基づき、国家内部の倫理観などの意義・存在を無視して、力の均衡関係への思慮のみで安全保障政策があるべきだという世界的な国際政治の風向きがあるのだとすれば、世界の行く末を案じるところがある。なぜならそのような世界観は、本質的に、暴力による抑圧がない本当の意味で平和な世界を、最初から目指していないのだから。それこそまさに世界が「野蛮な力と威圧が支配するジャングル」になりうることを意味するのだ。

その危険性を指摘した、かどうかは分からないが、「平和」という言葉に対してその恒久的な無謬性に疑義を呈し、また力による支配・抑圧が、偽りの「平和」の名のもとに、暗に容認されてしまう世界を懸念した、日本政府の今回の演説は高く評価できるのではないか、私はそのような感想を持った。そして、世界で少しでも、健全な倫理観に基づく国際秩序が回復し、成長していくことをこの日に願いたい。

(2023.2.24)


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