2022年2月23日水曜日

しかしダブルスピーク[二重語法]とは実に相対的な概念である【未来ノートコラムA・第13回】

 ジョージ・オーウェルが第二次大戦終結後に発表したディストピア小説『1984年』には、ダブルスピークという概念が登場する。日本語にすると、凡そ「二重語法」などとされる。国民の福祉や、あるいはある程度知識を持つ階級に対して極度の言論規制を張る全体主義国家オセアニアにおいて、住人は生まれた時から洗脳教育を施され、完全に国家に忠実な人間とされる中で、その理性的な思考も奪われ、明らかに文明的な価値観からすれば誤った物事も、正しいものだと思ってしまう。そんな支配の中で登場する概念だ。

全体主義国家オセアニアの省庁は作中でいくつか登場するが、その省の名前に最もこの概念ダブルスピークが表れている。

  • 真理省…「真理」という名が付いているが、国民に対して洗脳を施し、歴史や事実を改竄する役割を持っている。
  • 平和賞…「平和」という名が付いているが、実際は他の国家との戦争を続けるために軍事を司る。
  • 潤沢省…「潤沢」という名が付いているが、実際は軍事物資を配給するもので、それは一般国民には行き渡らない。

このように、実際には名前と逆の効能を持つ省庁が作中に登場する。だが作中世界ではそれが何の違和感もなく市民に浸透している。そもそもこの『1984年』は共産主義独裁やファシズムを批判した小説だったが、しかしその後それに属さない欧米の資本主義諸国の間でも、この「ダブルスピーク」という言葉や概念が広まっていた。

というのも、この「ダブルスピーク」のような実体とは異なる、特に正反対のネーミングを物事にするというようなことは、実はそんな全体主義社会に限らず、世界中のどこでも日常的に行われているのではないか、ということだ。もちろん、それは権力者の悪意に基づくとは限らない。

例えば、商品を販売する企業が顧客に対してそれらを示すときに、商品名を聞こえの良い言葉にするなんてのも、一つのダブルスピークの形態と言っていい。「上等・中等・下等」のような明らかに好印象と悪印象に分かれそうな品名でも「松竹梅」に改められたり、あるいは「死亡保険」という名称も「生命保険」という名が一般に通用したりしており、我々は何の違和感もなく日々これを受け入れている。

これらは語彙学上は婉曲表現によく分類されるが、「死亡保険」「生命保険」のような正反対の言葉に婉曲するなどという極端な話は実は非常に身近なものだとこの例を見れば分かるだろう。本質的なところから目を逸らさせるために、良い印象を与える言葉をその物事に覆い被せれば、人は何か変に感じるところもなく受け入れてくれるのだ。

このような語法が究極の全体主義国家やビジネス戦略の上で使用されている、ここまで聞くと、こういった婉曲表現や、実質的に同じものに関して言葉の受け取り手に異なった印象を与える語法について、あまり良くない印象を持たれた方も多かろう。ところが、それが全て人類の言葉社会に悪い影響を与えるかと言えば、実はそうではないと私は考える。

かつて「痴呆」と呼ばれていた老人特有の脳の障害が、今は政府や民間包めてみな「認知症」と呼ぶようになったのはそう昔のことではない。「痴呆」の二文字は全て「愚か」「馬鹿」などを意味し、患者への軽蔑が言葉だけで為されるかもしれない。確かに患者の知的能力が劣るのは事実だが、その症状の進行は制御できず、また不可逆的である。そこで、そんな風潮を追放しようと、「認知症」という名称に変更したわけだが、この言葉も妙で、「認知」とは健全な脳が行う機能であり、「認知症」に反対する理想的な状態を意味する。当然、これに「症」を付けた上では、この病気の本質を言葉から類推できなくなるのではないか、という批判も多々発生した。

それでも、認知症という言葉は社会によって「痴呆」より適切な言葉だと認識され、徐々に広まっていった。

この語法も、「ダブルスピーク」のような言葉の使いまわしとはさほど変わりはない。実際とは反対の内容で意味内容を伝えようとしているのだから。でも一方、このことから必ずしもこの語法が言語の歪曲だとかいって悪しきこととして懸念すべきことではないのに気づかされる。

ここでもう一つポイントになってくるのが、オセアニアの省庁名は別としても、例えば先ほどの「死亡保険」「生命保険」に関してもそうだが、後者の印象を良くした言葉が完全に間違っているわけではないこと、これにも注意すべきだ。「死亡」と「生命」はほぼ反対の言葉といって良いのだが、生命を補うとか他の捉え方をされればなかなか反論しがたい。


こういう考え方は、現代の政治問題に応用するために提示してみた。

最近話題になっているのは、「敵基地攻撃能力」の名称に関してである。敵基地攻撃能力とは、弾道ミサイルの発射基地など敵国の基地や拠点などを攻撃する装備能力のことで、現在日本ではこれを自衛隊に持たせて、相手からミサイル攻撃などをされた際に発動できるような状態にしておくべきかというのが議論されている。だが、先日公明党の幹部がこれについて以下の記事に記載されているように、改称論を唱えたのだ。

時事通信:「敵基地攻撃」改称論が拡大 年末の安保戦略改定にらみ

その後、この改称論に対する意見が様々なところで聞かれ、日本維新の会などが元来使用している「領域内阻止能力」などが改称案に挙げられたが、特にこの「敵基地攻撃能力」の保有そのものに反対する人たちは、これを「本質的なところを変えずに政策が納得されるよう、有権者の印象だけを良くしてごまかそうとしている」などと批判した。

本質的なところだけ変えずに言葉のみ変えるのは、そう、真しく「ダブルスピーク」の延長線上にあるような語法だ。「攻撃」という言葉は一般国民に印象が悪いので、それを使わずに同じことを表現しようとしているのだ。

ただ、これについても言えるのは、では例えばこの「領域内阻止能力」という言葉が完全に滑稽な言い回しかといえば、それは肯定できない。ミサイルが飛んできそうになったとき、そのミサイルの源である発射基地や設備を叩くのは、相手領域内で行うことであり、今までのミサイル防衛(=飛んできたミサイルに対し撃墜などを講じる)より明らかに革新的なものだ。今まで少なくとも「相手領域外」で行われてきたことを、「相手領域内」で行うものでもあるし、「領域内⇔領域外」というふうに、対称性を持たせる意味では十分妥当な言い回しともいえる。

かのごとく、個人的には「敵基地攻撃能力」より表現を軟化したような「領域内阻止能力」の方が、その言葉の意味内容と、本質的な物事とを見比べて吟味した際に、より適切に感じることさえある。先ほどの「痴呆」に対する「認知症」もそうだが、同じ対象を指す言葉をより綺麗な言葉に置き換えること自体、悪いことではない。より聞こえの良い言葉に置き換えれば置き換えるほど、本質的な意味内容から遠ざかるという法則はここに成立しない。逆もしかり、言葉を、その対象を貶し、あるいは一般に聞き苦しい言葉にしても、より適切な表現になるはずがない。今の日本の省庁、例えば「財務省」を「借金省」、「防衛省」を「攻撃省」、「法務省」を「死刑省」にすることは非常に滑稽であることから知られる。

最終的に、対象の事柄を指向する言葉が多数あり、綺麗な言葉から汚い言葉までそのバリエーションが豊富なとき、どの表現が最も指向するのに適切かは、一概にその結論を導き出せる法則が存在するとは言えない


故に、「ダブルスピーク」やその延長線上にある語法は、大衆を常に欺く危険な装置だとは言い切れず、それに基づき発生した表現たちは、実に相対的なものではないかと私は考える。

(2022.2.23)


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