2022年11月6日日曜日

古典を学ぶ意義とドラえもんの古典化

中学高校で経験する勉強というものは、個人差はあるが、非常に過酷なものである。その過酷さを体験した層を中心として、「なぜこの科目を学ばなければならないのか」「この科目を学ぶ意義はあるのか」という声が、SNSという言論装置が一般開放された21世紀の現代に、多く耳にするようになった。

特に槍玉に挙げられるのが、古典と数学である。数学に関しては、「サインやコサインを成人して使う場面はあるのか」「微分法はいつ使うのか」といった、数学で高校時代に学んだことの実用性を疑問視する声が多い。彼らの気持ちとしては、過酷な勉学を経て得た成果を実感できないということを、大いに不満に思っているようだ。

これに対する反論として、もっとも一般的なのが、「サインやコサインや微分は世の中の見えないところで非常に役立っている」という指摘だ。これは事実である。実際にも、近代文明を支える家電やGPS、あるいは我々の余暇となるコンピュータゲームの技術にも応用例があるなど、高校で学ぶ数学の一般的な応用例は枚挙に暇がないという現実が存在する。だから、数学は非常に実用的な学問だというわけだ。

だがそのかたわらで、このような反論は次のような再反論を許してしまうのではないかと、私は個人的に懸念している。「確かに数学は我々の身の回りで役立っていることは分かった。だがそれを享受する一般人がなべてその現代文明の技術を知っている必要は無い。三ツ星レストランで食事を取る者が、フォアグラの作り方を知っている必要があるだろうか。」と。将来家電やGPS、電子情報系の職に就く者に留まらず、文理進路問わないで一律に数学を習得する意義は本当にあるのだろうかと言われてしまう。

だから私としては、「数学のどこが実用的なのか」の声に対して、「これこれのところが実用的だ」などという相手の枠に はまった返答はしたくない。そもそも、全ての学問に実用性を求めるのが誤りなのだと私は言いたい。

学校とは黒板に書かれた知識を一斉に自分の物として取り込んでいく場所であるというのは、とんだ思い込みであり、幻想に過ぎない。少なくとも、「国語」「数学」という教科のことを言えば、その教科の目的とは、成人して社会を生きるのに応用できる「スキル」を得ることである。その「スキル」とは、決して「知識」ではない。具体的に言えば、「国語」では「言語活用能力」を、「数学」では「論理的思考能力」をおもに習得するのだが、これらの「スキル」は、「知識」のように一回の学習で自分自身に取り込めるものではなく、継続・反復した学習で徐々に染みついてくるものだ。そして、「国語」「数学」の中に存在する「古文単語」「漢文句法」「三角関数」「微分・積分」のような「知識」は、その継続・反復のための手段に過ぎない

つまり、数学に関してもう一度言うと、三角関数や微分法の学習を放棄するということは、「論理的思考能力」を習得するための手段を捨て去ることを意味する。当然、「論理的思考能力」とは、「三角関数」「微分法」といった具体的「知識」と違い、社会を生きるための誰もにとって必要な「能力」である。そうだからこそ、必然的に、それを得るための手段としての「数学」を一律一般に勉強することが求められるようになってくるわけだ。

現代日本においては、算数を履修して小学校を卒業した時点での論理的思考能力を用いるだけでは、とても社会で生活していくことはできなかろう。成人と同じ水準に、精神や思考能力を成熟させる役割を担うのが、中等教育に求められていることだ。

「国語」、特に「古典」で学ぶような「言語活用能力」に関しても、同様のことが言える。しかしここでも、また別の疑問が浮かんで来る。「言語活用能力を得るのであれば、現代文を履修するだけで十分ではないか」と。これが古典教育へ疑問を呈する者の基本的なロジックだ。さらには、純粋な日本、あるいは東洋的な要素しか持たない古典学習は、国際化が叫ばれる今の時代に逆行するのではないかという指摘もある。

だが、「現代文」を学ぶ以上に存在する「古典」を学ぶことのメリットに気づいてほしい。まず、「古典」の学習は、「現代文」と同様に、あるいはそれ以上に、その教材となる文章に文法的・内容的観点からアプローチを入れるので、「言語活用能力」を履修するための継続・反復作業としては十分なものであると言える。そして、何よりも、「古典」とは自国固有の継承物であるゆえ、先人たちの受け継いできた現代とは異なる価値観・文化を受容し、内面化することで、一国民としてのアイデンティティを保つことができる。かなり大げさな言い方かもしれないが、これは、国際化が進む現代において、その世界で埋もれないようにするための手段として非常に有効であることが言われている。自国特有の価値観と文化を諸外国に説明・表現できる能力は、国際化社会における大きなアドバンテージであり、これも上述に挙げた主要な「スキル」と同じように人々一般に求められる資質なのだ。

簡単に言えば、「古典」の学習意義は、「言語活用能力」の習得に加え、同じ土地に生まれた異なる時代を生きる者たちの価値観と文化の継承にある。ただ、その価値観・文化とは、決して「知識」のように個々のものとして内面化するものではないことには注意しなければならない。


ここまでは、中等教育における学習教科としての「古典」の話題を取り扱ったが、ここ以降は、もっと広義の「古典」について論じていきたい。広義の「古典」とは、現代とは異なる価値観・文化を背景に製作され、それがその後の時代においても読まれ、あるいは語り継がれる文学的作品のことを指す。何も文語体で書かれた作品だけが古典ではない。例えば、明治の文豪の文学なども、時代を経た今でも読み継がれているのは、その背景にある価値観・文化が後世にまで伝えるべきとされたからであって、広義の「古典」として扱われているのだ。

で、私はこの記事で本当は何を述べたいかというと、それは「ドラえもんの古典化」についての話である。

「え?『ドラえもん』は漫画を原作とする作品ではないか。どこに古典の要素があるのか。」と疑問に思う方も少なからずいらっしゃるだろう。だが、少なくとも一般的な定義を照らしても、『ドラえもん』を文学的作品と呼称する余地は十分にある。確かに、作品初期こそ、ただ子どもたちに夢を与える物語、どたばた騒動を中心としたギャグとして作品は構成されていた。けれども作品の進行につれて、作者の藤子不二雄氏が作品に込めた趣旨というのは奥深くなってきた。日常的な短編にも、時々ドラえもんやのび太のセリフやストーリーの顛末に、人間の成長のための教訓や、価値観への賛美が折り込まれ、大長編には、悪役と戦うことを通じた、善悪や価値判断の基準を巡る物語が埋め込まれるようになった。このように、日常の中に起きる非日常的な出来事を描くことを通して、更にその奥に描かれた価値観というものが少なからず存在するのだから、非論理・非形式的な面で人間を描いたという点で、『ドラえもん』は文学的価値がある作品と言えよう。もちろん、これは『ドラえもん』だけではなく他の藤子作品にも言えることである。

こうして『ドラえもん』は国民的に愛される漫画作品となっているわけであるが、それならではの悩みというのも近年発生してきている。というのも、多くの人が当然ご存じかとは思うのだが、『ドラえもん』はあくまで昭和40年代の発祥の作品のため、現実世界の時が進行するにつれて、描かれる世界観と時代とのギャップがだんだん開きつつあるのだ。例えば、のび太たちの服装や、「空き地」「裏山」の存在、子どもたちの趣味嗜好など、現代21世紀で起こり得る日常の出来事として語る(注)のに、無理が生じてきている現状がある。

(注)現行テレビアニメ(水田版アニメ)では、舞台設定を21世紀の現代としており、たびたび放送年の年代表記や登場人物の発言が作中に見られる。

では何としてでも作品価値を存続させるために、のび太たちの服装や、登場する小学生たちの趣味嗜好など全てをより現代風にしようとなれば、これは作中の世界観の著しい破壊に繋がりかねず、また作者の作品に込めた趣旨主題も崩壊し得る。一方で、では最初から舞台設定を現代ではなく「ひと昔前」にしようとすれば、これは作品の大前提である「日常の中の非日常を描く物語」のうちの「日常」要素が薄れてしまい、これを維持できなくなってしまう。

だから、非常に難しいことではあると思うのだが、舞台設定が現代という建前を維持したうえで、作中の世界観も維持する。そうして、『ドラえもん』に込められた作者の大いなる趣旨に含まれる価値観や思いを、古典として次へ次へと継承できるような作品との触れ方を模索していくのが理想ではないかと私は考える。つまり簡単に言えば、我々『ドラえもん』を愛する者たちは、細かいことをつべこべ言わないのがよいということになる。そして、これからも『ドラえもん』制作にかかわる方々に関しては、『ドラえもん』世界観の維持のためにその努力を続けてほしい。

最近、SNSを使うようになってから、具体的な内容は言わないが、『ドラえもん』の作品についての設定の矛盾やら時代とのギャップやらを声高に指摘する人々を、残念ながら多く目にするようになった。水田版アニメ(わさドラ)が原作漫画の内容を反映させられていないとかそういう話ではなく、単純に今のドラえもん世代が原作に触れる機会が減っているのではと思う。だから『ドラえもん』の何に魅力があるのかを知れない。私もその一人だった事実はあるし、頭の痛い話ではあるのだが、とにかく今できることは、『ドラえもん』に描かれる価値観を大切に守っていこうという前向きで強い意志を持つことのみだ。

とにかく多くの人に『ドラえもん』の古典としての価値を認識してもらうことで、この作品の魅力をそのままのかたちで受け継いでいってもらいたい。

(2022.11.6)


2 件のコメント:

  1. 読んでて気持ちのよい文ですね。日本のアニメって本当にレベルが高いよね。ドラえもんもそうだし、ジブリとかエバンゲリオンとか、日本が誇る一つの文化だと思ってます。

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