2023年5月6日土曜日

国際情勢の今後を「予想」する作業にどれほどの意味があるのだろうか【未来ノートコラムA・第20回】

 ロシア軍がウクライナに侵攻して戦争が始まって以来、世論は世界情勢が自分たちに与える負の影響をいっそう憂慮するようになった。戦争や国際関係が直接日本に与える安全保障のリスクは当然のこと、これらはエネルギーや物資の価格など、人々の日常生活にも経済的な面で大きな負荷を与える可能性が高い。その流れの中で、人々の国際ニュースへの関心が高まっていく。

ウクライナ戦争について解説する有識者の中には、この戦争の将来の展望をある程度予想するような人がいる。このような国際情勢の展開の「予想」は、上述のように国際情勢の影響の自分たちへの波及を憂えている人々を中心に、多くの人の関心を集めやすい。だが、関心の高い事柄であるからと言って、そのような識者たちの「予想」が概ね本当に信頼に値するものなのかどうかは、別の論点の話だ。

そもそも日本の有識者の中には、ウクライナ戦争の開戦、すなわち2022年春にロシア軍がウクライナとの国境を越えて全面的に侵攻を始めるという軍事行動を予見できていなかった人は一定数いた。侵攻が始まって1年近く経った今も、Googleで検索すると、堂々と上の方に出て来るような記事も存在する。

例えば、エネルギー地政学者の杉浦敏広氏の記事。

ロシアのウクライナ侵攻はあり得ない、これだけの理由(JBpress)

この記事は、2022.1.26に公開された記事で、侵攻開始の約1か月前の分析となっている。その中で杉浦氏は「筆者は、ロシア軍のウクライナ侵攻はあり得ないと考えております。ロシア軍がウクライナに軍事侵攻する必要性も必然性も大義名分もありません。」「ロシア軍のウクライナ侵攻を煽っているのはむしろ米国と日本含む欧米マスコミであり(後略)」などと述べている。

ただこのように議論を展開したものの、実際はその約1か月後に戦争が始まり、彼の予想は結果的には外れてしまうということになった。

この記事の筆者のみならず、他の多くの有識者の中にも、ウクライナ戦争の始まりを予見できなかった人がいる。彼らが予想に失敗をした理由とは何なのだろうか。そう考えたくなるところなのだが、今回私がこの記事を書き始めた目的は、ウクライナ侵攻前の有識者の情勢予想の個別の検証あるいは問題点の追及ではなく、一般論として、「国際情勢の予想」というイベントに対する一つの理念の構築にある。大げさな言い方をしたが、要するに、「情勢予想」の今後のあり方と、私たちの受け止め方のあるべき姿を見出していこうということだ。


世界は複雑系

国際情勢を研究する学問として、国際政治学が存在するが、ではその分野の知識を極め、造詣を深めたからと言って、ウクライナ戦争のような、世界で起こっている全ての国際的な事件を理解し、説明できるだろうか。ウクライナ戦争のような事件は、「国家」の行動を単位としたマクロな出来事だが、ではその「マクロ」と「ミクロ」の境界線はどこにあるのだろうか。

図1 世界は本質的に混沌

国際政治学的な事件に限らず、世界中に起こっている出来事や現象は、全て我々の認知の領域を越えている――つまり学問上も捕捉不能な――ものも含めた出来事の連続と積み重ねで構成されている。例えばある国家同士の地域紛争を考えてみても、それには関与している周囲の大国の思惑という巨大な力の働きもあれば、両国の国民のナショナリズム的感情、つまり群衆という小さな存在の意思の連合といったような、その主体の大小が様々である要素たちの因果関係が、そこに無数に潜んでいる。さらにその因果関係の下には、更に下位の階層の因果関係が存在する。世界は本質的に「混沌」であり、「複雑系」だ(図1)。

そのような世界の中で、今現在起きている出来事の分析・理解さえも単純な作業とはいかないのに、これから起きる将来の出来事の予測――すなわち無数の因果関係の予知作業――をしようというのは、学問上、有意義な営みだとは考えづらい。国際政治学的な事件も、それを専門分野とするような国際政治学者の知識だけで関連する全ての事象を理解し、説明するというのは、現実的に可能とは思えない。だから、国際関係上の事件の検証には、常にそれを補足するものとして、軍事研究や、他の社会学の研究の成果を援用する準備がされている。

図2 事実認識と因果メカニズム

事実認識を整えるのであれば、それを研究対象とする学問分野の知識だけでなく、より包括的な、複数の観点を含んだ分析をしなければならない。基本的に、あらゆる社会学の分野において、複数の学術的な観点に基づいた因果メカニズムの検証は非常に有用なものということになっている(図2)。

以上の議論は、上記の杉浦氏の記事のような開戦の有無を巡る情勢予想の失敗の原因が、因果メカニズムの検証の段階において、学術的な視点の複数性が十分でなかったことにあるのではないかということを示唆している。杉浦氏はエネルギー地政学の分野の専門家であり、恐らく上記の記事もその観点から分析して書かれたものだと思われるが、一方で、彼は他の分野、特に軍事面の分析――ウクライナ戦争の可能性を議論するにあたっては不可欠な要素である――については恐らく殆ど素人である。事実、Twitterでは、軍事的な分析の要素を含む内容に関して、記事内の数々の誤謬が指摘されている。全文は読んでいないが、私も記事の文章を見る限り、いちばん大事な軍事面での分析内容がとても拙いものになっているように感じた。

繰り返すが、世界の構造というのは、複雑系であり、一つの、あるいは少数の捕捉可能な論理で成立しているものではない。それゆえに、戦争を含む国際関係上の出来事のような複雑な因果関係が潜む事象について、少ない観点からの現状分析や将来の展開の予測を行うことは、議論を不正確なものに歪める可能性が高い。さらに、関係する全ての因果関係を考慮しても、事の将来の展開の予想の正確性を高めるのには限界がある。なぜなら、複雑系は、現在のところ、人間の認知を超越している構造であるからだ。


「有識者」とは「何の専門家」か?

現在、ウクライナ戦争を巡る今後の展開については、多くの人がそれを気にしているところだ。ロシアが核を使う可能性はあるのか、関係国の輸出入はどうなるのか、ウクライナに勝算はあるのか………。テレビに出演したり、新聞・雑誌に寄稿したりしている有識者の中には、人々が気になっているこれらの将来の出来事について、自分の見解を述べて「予想」を展開する人もいる。そうした大衆に言説を提示する有識者たちは、大抵の場合、過去に様々な学問分野で研究実績を残した「有識者」であることは確かなのだが、実際、専門家たちは複雑系の世界の一部さえも完璧に把握することはできない。

もし私たちが、テレビ、雑誌、新聞、インターネット等で「有識者の見解」と題する言説に出会った場合は、その「有識者」がどういう分野の人で、過去にどのような研究実績を残し、他の有識者からはどのように評価されているのかということを、少し頭に入れて読んでおく必要がある。その「有識者」が自身の言説の中で扱っている事柄が、その「有識者」の過去の研究・専門分野と一致していれば、その見解が正確である可能性は高まる。

しかし本当の意味での「有識者」――ウクライナ戦争の戦況の予測の話で言えば、国際関係学は当然のこと、軍事面の知識をも有している人――でさえも、この先の展望の予測という、複雑系世界の中での未知なる因果関係の予想は、上述の通り、どう考えても難しい作業になる。国際政治学者の高橋杉雄氏は自身のTwitterのプロフィール欄で「予想の的中率は自己評価で3割くらいなのでそれくらいのものと思ってください。」と書いているが、3割でも高い方なのではと個人的には考えている。そもそも時事的な学問に携わっている人々の間では、将来の展望の予測という作業の答えがあまり当てにならないものであるということは、当たり前の話であり、我々素人もよくそれを認識しておくべきだと思う。


本稿で記した以上の議論を踏まえたうえで、「『国際情勢の予想』というイベントに対する一つの理念」を提示するなら、以下の二点のようになる。

  1. 有識者による「国際情勢の予想」作業自体は、我々が普段受け止めているほど重要な議論ではない。未来予想の作業そのものが本来は本質的に賢明な営みとは言えない。
  2. 未来予想にしろ、現状の分析にしろ、我々は本当の意味での「専門家」の話に耳を傾ける必要がある。学問は、異なる観点を専門とする複数の有識者による営みで成立している。
因果メカニズムを取り扱う社会学者にとっては、既存の思想や固定観念ほど、その研究・分析に邪魔なものは無い。人間の背後にある既存の観念は、時にその人の理性的な思考プロセスを妨害する場合がある。二つの対立する観念・思想の中間に立つことを、「中立的」「客観的」とは言わない。これらの観念・思想は、あくまで一つの観点(ものの見方)に過ぎず、複雑化した社会ではこれのみを用いて研究対象を分析することなど出来ないのだ。「客観性」とは、ある一つの研究対象に対して、学問や思想を越えて包括的に研究・分析を積み重ねていくことなのではないだろうか。そうした流れの中で、初めて事象の予測作業が可能になってくる。

(2023.5.6)


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