2021年7月23日金曜日

歴史の教える真の教訓を導く諸事実【未来ノートコラムA・第5回】

 歴史上起こった大犯罪や大惨事。それを犯した者は非難されるべきでありますが、一方でそれらの出来事は歴史のほんの一齣に過ぎないとも言えます。何もしていなければ、人間は過ちを繰り返します。そうならないためには、その出来事を空前絶後のものと捉えるのは非常に愚かな手段です。我々は歴史から何をどのように学べば良いのでしょうか。その答えを3つの話題から探っていきます。

アーレント『エルサレムのアイヒマン』反響に見る、犯罪がなぜ繰り返されるのかという問いへの答え

ハンナ・アーレントは、第二次世界大戦前のドイツに生まれたユダヤ人で、半生をそこで過ごし、その後ナチ党がドイツを支配するようになると、米国へと亡命しました。戦後、ナチ党が滅びた後は、当時のドイツの国家主義と、ファシズム的な全体主義を考察し、『全体主義の起源』という本を著しました。そこでは、近代史上稀にみる大虐殺をなぜナチス・ドイツは実行できたのか、そして独裁者と被支配民との間の意外な関係性について述べられました。

全体主義については、この「未来ノート」内においても、いくつかの記事で扱われており、それに関して僕の考察があるので、良かったらそれも参照してください。

彼女の著作として有名なのは、この『全体主義の起源』の他にももう一つあり、これは1963年に米国の雑誌に寄稿された「エルサレムのアイヒマン──悪の陳腐さについての報告」という書籍になります。そこでは、戦前戦中ナチ党の幹部で、ユダヤ人大量虐殺(ホロコースト)の実行者であったアドルフ・アイヒマンが、戦後建国されたユダヤ人国家イスラエルで罪に問われた時の裁判の一部始終が記されました。

アイヒマンは、第二次大戦後ナチ党が滅びた後、アルゼンチンに長い間亡命していましたが、1960年にアルゼンチンにはるばるやって来たイスラエルの特務諜報部隊によって密かに逮捕・強制連行され、1961年にユダヤ人に対する罪などに問われて公開裁判を受けました。アイヒマンは、自分は上官のユダヤ人を抹殺しろという命令に従っただけで、もし従わなければ自分が粛清されていたとし、無罪を主張しましたが、結局死刑判決を受け、イスラエルの地にて執行されました。

このナチ党幹部アイヒマンの逮捕、裁判そして死刑執行について記録し、彼女の考察を入れて発表したのが、「エルサレムのアイヒマン」という文章だったわけです。

具体的に彼女はどのような考察を行ったかというと、

  • 果たしてアルゼンチンで現地法に背いて行われたアイヒマンの逮捕・連行、そしてイスラエル(第二次大戦後1948年建国)にて行われた裁判には正当性があったのか。
  • アイヒマンを究極の極悪人として描くのは不適切で、実際はただの小役人だったのではないか。
  • ホロコーストのような近代史上最大級の犯罪を行うような人物は、全て根からの悪人なのだろうか。実際はこういった犯罪者は、ありきたりのつまらない人間なのではないか。

全体として、彼女の示した考察は、当時のユダヤ人やイスラエルの世論とは距離を置いたものが多数を占めました。当時、イスラエル国民やユダヤ人は、アイヒマンは人類史上稀にみる根からの極悪人であり、彼が実行したことも人類史上稀にみる大犯罪だと考えていました。それに対し、アーレントは「アイヒマンはつまらない在り来たりの人間」と相反した考察を記した訳ですから、当時のユダヤ人たちは彼女に反発しました。当然、アーレントはユダヤ人であったわけですので、「自分たちの集団が酷い目に遭わせられたのに、加害者を極悪人と非難しないユダヤ人は裏切り者だ。」として、彼女は多くのユダヤ人の仲間から激しく攻撃されたのです。

しかし、よく考えてみれば、彼女の言うことはとても理に適っているのではないでしょうか。

まず、とある犯罪について、それが犯罪者Aによって行われた原因を、「あの犯罪者Aは元から悪い奴だったから」と評価するような人物Bは、このように評価することによって、「自分Bは元からの悪い奴じゃないから絶対にあんな犯罪はしない」ということを示そうとしているのです。更に、Bがこのようなことを述べることで、第三者Cは「Aは悪い奴だった。Bは悪い奴じゃないからあんな犯罪はやらない。自分Cも悪い奴じゃないから自分もあんな犯罪はしない」と自信をつけることとなります。つまり、実際の犯罪の原因からは目を背け、あえて当時の犯罪者Aと自分たちBCは根から異なる人間だと宣言することによって、①自分たちBCはあの犯罪者Aより優越している②自分たちBCは絶対にあんな犯罪はしないだろう、という事を互いに確認することができるのです。仮に、実際にはちゃんとした原因があったとしても、それを示すことで、「自分たちも犯罪を行う可能性がある」という余地を残すことになりかねないので、BやCは現実から目を背けるのです。

このように、単に犯罪の原因を、自分たちはする余地がないようなモノに設定する行為は、事実を歪曲し、「失敗から学んで、自分たちはこのような犯罪を行わないようにする」という教訓から逃避することに繋がるのです。なぜこのようなことが起きるかというと、もし「犯罪者Aと同じことを僕たちBCもするかもしれない。だから気を付けよう」とした場合、BやCは「自分たちも犯罪を行う」と一旦認めることになり、これは明かな自己否定になるからです。恐らく全ての時代の全ての人類にとって、自分を否定されるというのは最大の屈辱で、それを避けたいのは人類共通の習性です。

だから、犯罪の原因を「犯罪者Aは元から悪い奴だったら」と単純に済ませるような物言いは、いつの時代のどこの国でも有り得ることなのです。そして、このような現実逃避を繰り返した結果、失敗から学ぶということが出来なくなり、犯罪も繰り返されるのです。

お分かり頂けていると思いますが、上に示したものを具体例で当てはめてみますと、Aが「アイヒマン」、BやCが「イスラエル国民やユダヤ人など」ということになります。アーレントは、ユダヤ人なのにもかかわらず、BやCみたいな人物たちの集団から独り抜け出して、彼らに疑問を投げかけたわけです。


パレスチナのアパルトヘイト…、結局誰もが犯罪を犯す可能性がある

ユダヤ人は、第二次大戦中ナチス・ドイツが主導した民族政策により、大勢の人々が虐殺され、これは歴史に残る大犯罪、そして大惨事となりました。これは、それから80年が経とうとしている今でも、人類史における重大な出来事として、語られています。そして、このようなホロコーストだけではなく、当時のドイツで起こったナチズム旋風は一体何だったのか、なぜ人々は独裁者に従ったのか、といった謎や疑問が今でも研究・検証されています。僕はアーレントが残した「全体主義の起源」で述べられていることにやや賛同的で、全体主義やこのような大犯罪や大惨事はいつどこで再び行われるかは分からないという立場を取っています。

結局、誰が犯罪を犯すかは分からず、世界中の誰もが犯罪を犯すと考えるのが最も適切ではないでしょうか。当然、これらの犯罪や惨事から学ぶことも出来ますから、学ぶ者こそが犯罪や惨事を起こす可能性がより低くなるのではと考えます。逆に、学ばない者はそれらを犯す可能性はみな同じです。たとえホロコーストに遭ったユダヤ人国家であるイスラエルでさえも。

HRW:イスラエル政府の人権侵害政策、アパルトヘイトと迫害の罪に該当

イスラエルは、戦後1948年に、民族離散後2000年もの時を経てユダヤ人の本当の故郷であるパレスチナの地に建国されました。しかし2000年の間にはパレスチナの地にはアラブ人が永住していたわけですから、こうしたアラブ人たちはパレスチナ国を建国してイスラエルと対峙しました。国際連合は、イスラエルとパレスチナの住み分けを実施しましたが、その結果に満足できないパレスチナ国と周辺のアラブ諸国がイスラエルに対し宣戦布告をしました。これが中東戦争と呼ばれる戦争です。計4回行われましたが、いずれの戦争もイスラエルが勝利し、イスラエルはパレスチナ国から領土を得て、現在はパレスチナのほぼ全てを支配しています。

HRW=ヒューマン・ライツ・ウォッチは、上の記事において、現在パレスチナのほぼ全域を支配するイスラエル政府が、アラブ人を人口密集地に集めるなどの民族隔離を通じて、常に各所のユダヤ人が多数派になるように人口を配分する政策を執っているとしています。また、アラブ人の学校に対しては十分な資材を用意せずクオリティを高めさせなかったり、アラブ人の住んでいた土地を奪うなど、政府による人権侵害や隔離政策が公然と行われていると言います。

これが事実だとすれば、イスラエル政府が行っていることは、皮肉なことにナチス・ドイツのホロコーストの前触れとなるべく執られた民族政策や、あるいは南アフリカ共和国でかつて行われていた非白人人種を隔離するいわゆるアパルトヘイト政策に似ています。ユダヤ人のこれまでの抑圧されて来た歴史を振り返れば、いくつか同情できる点も存在はしますが、結局なぜホロコーストは起こったのか、アパルトヘイトは執られたのか、と言ったような教訓を全く理解していないのです。

これまで人類はナチス・ドイツのホロコーストや、南アフリカの非白人隔離政策など、非難されるべき犯罪や惨事を歴史として見て来ていました。しかし、それらにより犠牲となった集団の人々の次世代だって、その教訓から学ばなくてもよい例外ではありません。これは、ドイツ人やユダヤ人、そして我々日本人に限った話ではなく、人類共通の理ではないでしょうか。


歴史問題は決して局所的な話題ではない

今までの話題は、第二次世界大戦からでのドイツとユダヤ人に関係する話題でしたが、ここからは、以上に述べたことを踏まえて、第二次大戦時の日本とその周辺諸国に関する話題について扱っていきます。

周知のとおり、日本はその周辺諸国、特に中国や韓国と様々な第二次大戦界隈の事柄について「歴史認識」を巡る歴史問題を抱えており、それは戦後70年以上たった今でも中韓との間の問題は根本的な解決には至っていません。そういえば最近は欧米諸国が中国のウイグル自治区を巡る人権弾圧問題について非難していて、当然日本も一民主国家としてそれに加わっているのですが、このようなウイグルの人権状態を批判する国のグループに日本がいることについて、中国政府はたびたび第二次大戦時の日本軍の行為を持ち出して反論しています。下の記事のようなことをたびたびしているのです。

読売新聞:「日本は人権尊重しているのか」中国外務省、ウイグル問題巡り反発

中国政府は、どうやら日本軍がかつて行ったとされる「南京大虐殺」を比較して、今自国の地で起こっているウイグルを巡る問題への批判、特に日本からの批判をかわす狙いがあるようです。

ただ、比較する、比べる、対比すると言っても、2つの南京大虐殺とウイグル問題については、決定的な違いがあります。

それは、南京大虐殺は過去の出来事なのに対し、ウイグル問題に関しては、現在進行形で起こっているという事です。

過去の出来事は、歴史上の出来事です。歴史は人類共通の歴史であり、そこから学ぶべき教訓は、全ての人間にとって同等に価値あるべき教訓です。仮に南京大虐殺が存在したとしても、確かにそれを行った日本軍は「悪」だとしても、それを以て現在の日本国民に責任を追及するというのは非常に不合理なことではないでしょうか。

今生きている日本国民の大半は、戦中は生まれていなかったか、もしくは幼年期であったはずです。生まれもしていない、または幼年期で遠くの国で起こった出来事など当時は知る由もなかった人々だけに、今更責任を追及する、または反省を求めるというのは、明らかに非合理です。一般に、とある集団の先祖が犯罪を行ったとしても、その集団の現在の構成員に責任は全くありません。

そもそも歴史というのは全人類の共通財産であり、歴史上起こった失敗や犯罪は、その後のいつの時代のどこの国の者も同等に犯す可能性をはらんでいるのです。ですから、ホロコーストや南京大虐殺のような歴史上の惨事に関しては、その当事者や当事者の次世代にのみ責任を押し付けるのではなく、その失敗や犯罪から学んで自分たちもそれらを犯さないように十分気を付け、教訓としていくのが大事なのです。南京大虐殺の例に言わせれば、日本人だけが二度とこのような大惨事を起こさないようにね、と教育されるのではなく、世界の人々が、もちろん中国人も含めて学んでいかなければ、また再び失敗や犯罪を繰り返してしまう虞があります

残念ながら、もう繰り返してしまっています。

戦後日本は民主主義国家として再出発し、国民の生活レベルは向上しました。戦後日本の国家形態には、人権立国としての側面もあります。ところが、中国はどうでしょうか。戦後の国共内戦で勝利した中国共産党によって、中華人民共和国が建国されましたが、その指導者毛沢東による大躍進政策は失敗に終わり、餓死者は大量に出たうえ、その後の文化大革命などで混乱が続きます。辛うじて改革開放で、国民生活は安定しましたが、現在でも中国共産党による一党独裁や言論統制が続いています。また、言論統制をするために、香港で国家安全維持法を制定したり、言論統制を利用して影でウイグルの地にて人権抑圧をしているのです。

別に中国の歴史や中国人としてのアイデンティティを侮辱するつもりはありませんが、これが現状なのです。先に挙げたイスラエルの現状に関してもそうでしたが、結局歴史上起きた大規模な失敗や犯罪は、誰もが犯す危険性があり、人類の誰もが自分事の教訓として学んでいかなければ、同じ轍を踏むことになりかねません。現代において、過去に過ちを犯された方が、今現在過ちを犯しています。これは、アイヒマンの例で紹介した「自分たちは犯罪者のせいで酷い目にあったが、自分たちは奴らとは違うので、あのような事は犯さない」という誤った錯覚、けれども本能的に起こる錯覚に起因するのです。

偏に「これは日本が悪い」「ドイツが悪い」「ナチスが悪い」と言っても、言っていることは仮に正しくても、問題は解決しないのです。

(2021.7.22)

0 件のコメント:

コメントを投稿

コメントを投稿される際は、未来ノートの「運営方針」に示してある投稿ルールを確認していただいて、それを遵守されるようお願いいたします。投稿内容によっては、管理人が削除する場合があります。

選抜記事

多数決文化との決別【未来ノートコラムA・第12回】

多数派がいつも正しいとは限らない、それはいつだって  小学校の算数の授業で、アナログ時計は一日に何回長針が短針を追い越す(=重なる)かという問題が出されたという。選択肢は、21回、22回、23回、24回、25回の5つであった。 当然ながら、答えは22回である。算数的なテクニックを...

多読記事