2021年8月12日木曜日

【読書感想】民主主義とは何か 前

 この記事では、東京大学社会科学研究所(ISS)にお勤めされている、政治哲学者の宇野重規教授が、COVID-19パンデミック最中の2020年10月に発表された、『民主主義とは何か』という本を読んだ僕の感想などを書き進めていこうと思います。なお、この本に関しては、「未来ノート」のリンク集でも紹介しているので、まだ読んでいなくて興味のある人は、それを元に購入したり、あるいは近くの図書館で借りて読んでみたりすることを強くお勧めします。

さて、本を紹介する前に、著者の先生を紹介するのですが、宇野教授は、昨年菅義偉政権が発足した直後に問題となった、日本学術会議の会員任命を拒否された6人の学者のうちの一人です。宇野教授は、過去に第2次安倍政権が推進した特定秘密保護法に反対しているほか、政権そのものに対してもあまり肯定的でなかったので、推薦任命から外されてしまった可能性が高いという事です。

では早速本の感想の方に移っていきます。なお、以下に掲げられている当書籍「宇野重規『民主主義とは何か』講談社2020」の本文の引用は、著作権法第32条で示されている引用の方法に乗っ取ったものであり、これらは全て論評目的で行われていることを、ここに添えておきます。引用部分は、数マスくらいインデントを下げています。


「民主主義」は「多数決」か

まず、本文は、「はじめに」の部分で、相対する2つの民主主義について述べた文章を、読者にどちらが正しいか問いかけています。例えば、

A1「民主主義とは多数決だ。より多くの人が賛成したのだから、反対した人にも従ってもらう必要がある。」
A2「民主主義の下、全ての人間は平等だ。多数派によって抑圧されないように、少数派の意見を尊重しなければならない。*1

という2つの文章が挙げられています。その答えは、本文の終わりである「結び」にて、これまで著者が述べたことを踏まえて解説してあります。著者は、そこで問いかけの答えに関して、

……、多数決を中心とする民主主義に対して、歴史的に多様な批判がなされたのも事実です。初期の最大の批判者はプラトンです。師であるソクラテスが民衆裁判で死刑にされたことを受けて、多数派の決定だからと言って正しいとは限らないことを、敢然と主張したのです。彼が「イデア」と呼んだ真理は一つであり、数学の定理を多数決にかけても仕方がないように、何が善であるかを多数決が決めることは無意味でした。……*2

と述べています。これはどういうことかというと、端的に言えば「多さは正しさではない」ということになります。なお、古代ギリシャの哲学者「ソクラテス」がどうして死刑になったのか、その弟子である「プラトン」とは何者なのかについては、解説を省きます。知りたい人は、こちらをご覧ください。

ぴよぴーよ速報(YouTube):小学生でもわかる哲学の歴史・前編

まず、この引用箇所で作者が示したことを説明する前に、大前提を記しておきます。それは、「政治には必ず『最善の道=正解=真理』がある」ということです。引用箇所にも言及されていた、古代の哲学者プラトンは、「この世界の万物は全て『イデア』(=真理法則)に基づいている」と主張しています。ですから、「政治数学の問題も、この世のものであるから、真理法則に乗っ取っており、正解がある」と解釈できるのです。

数学の問題は、正しい答えを見つけるために、論理を使います。学校で、数学の問題の答え合わせをするときに、生徒らの多数決なんて行いません。なぜなら、多数派が間違っている可能性があるからです。政治も同じです。政治は、数学と違って、論理を使うのが難しいので、仕方なく多数決を導入しているわけなのですが、それでもやはり、多数派がいつも正しいとは限らないのです。

民主主義は、政治的な正しさ=真理を求めるために、民衆を動員するシステムですが、その中で、多数決で物事を決めるというのは強引な手段で、本当にどうしようも無くなった時に取っておくべきものだと僕は考えます。


では多数決以外にどうやって民主主義を実現すればいいのか、という事ですが、一つは「多数派と少数派の間で合意形成を行う」という手段が考えられます。どういうことかというと、

例えば人物Aと人物Bが、1つしかないリンゴを食べたいと言って争っていたとします。しかし、よく聞いてみれば、「人物Aは今すぐリンゴを食べないといけない」「人物Bがリンゴを食べるのは明日でもいい」という事実が判明したのです。そこで、2人は「人物Aは今すぐリンゴを食べていい代わりに、明日人物Bにリンゴを買いに行く」という妥協案を練り出して合意したのです。言わば「ウィンウィン」の関係になれるという事です。

これを多数決で強引に解決しようとすると、もし人物Bの支持者がAの支持者よりも多かったとすれば、「Aが損をし、Bが得をする」という、全体的に見て「最善の道とは言えない」結果になってしまいます。だから、民主主義のためには、多数決を試みる前に、妥協と合意の可能性が無いか探ってみる必要があるのです。


話が戻りますが、幕末期~明治初期の日本には、「政治には必ず1つの真理がある」という考えがあったことも、この本では述べられています。

小楠(書き手注:五箇条の御誓文の起草を行った由利公正の同僚藩士である横井小楠のこと)は英国の議会政治や、アメリカの大統領制など、世界の政治のあり方について、深い知識と洞察をもっていました。しかしながら、彼が……人々の開かれた討論による政治を理想としたのは、必ずしも西洋社会についての知識によるものではありません。……小楠はむしろ、宇宙を貫く天の「理」(ことわり)の存在を確信していました。……求められるのは、そのような「理」を討論によって明らかにすることでした。*3

上で述べられている「宇宙を貫く天の『理』」は、彼(小楠)の研究した朱子学に由来するもので、プラトンの言った「イデア」であり、万物に必ず存在する「真理」のことなのです。小楠は、西洋哲学を知っていたかは定かではありませんが、「真理」の存在を信じるのは世界共通のようです。


「民主主義」は「選挙」に尽きるのか

また、著者は、上のA1とA2の文章の他に、こんな2つの文章も挙げています。

B1「民主主義国家とは、公正な選挙が行われている国を意味する。選挙を通じて国民の代表者を選ぶのが民主主義だ。
B2「民主主義とは、自分たちの社会の課題を、自分たち自身で解決していくことだ。選挙だけが民主主義ではない。」*4

このどちらが正しいかを結論を著者が述べる前に、著者はこんな興味深いことを述べています。

しかしながら、選挙さえ行われれば、それで十分といえるでしょうか。かつてフランスの思想家ジャン=ジャック・ルソーは、「イギリス人は自由だというが、自由なのは選挙のときだけで、選挙が終われば奴隷に戻る」と批判しました。選挙のとき以外、国民にとって政治が遠いものであるならば、それが本当に民主主義なのか疑問が残ります。選挙以外の日常的な市民の活動においてこそ、民主主義の真価が問われるはずです。*5

これは、著者が述べたこの問いかけに対する明確な答えでこそありませんが、実に著者の志向が現れている文章ではないでしょうか。実は、この引用文は、その上の引用と同じ「はじめに」の部分から引用したもので、著者が本当に言いたい問いかけへの答えはまた別に存在します。しかし僕は、この部分の重要性を感じたのです。

今の日本の政治制度だと、国民が政治に意思を示す機会は、ほぼ選挙しかありません。しかし、例えば昨年安倍政権において、検察庁法改正案が提出された時、恣意的運用が為されるといって、インターネットの言論を中心に、凄まじい抵抗がありました。その結果、改正案は廃案となりました。

この事例は、選挙以外のときに民主主義が機能した数少ない貴重な例です。なぜ、この場面で民主主義が機能したかというと、それは、選挙以外のときにも、人々に「自由」、具体的には「言論の自由」「表現の自由」「報道の自由」が与えられていたからです。

このように、民主主義が実現するためには、その前提として、国民が恒常的に「自由」を始めとする基本的人権を有していることが必要になってきます。そういうことを理解していただければ幸いです。


記事が肥大化しているので、この感想記事は前編と後編に分けます。今までの文章が前編でした。後編に続きます。

【読書感想】民主主義とは何か 後>>


引用

(*1)同書p3

(*2)同書p245-246

(*3)同書p222-223

(*4)同書p5

(*5)同書p5


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