2022年1月27日木曜日

メディア小論【未来ノートコラムA・第11回】

 インターネットやSNS上では日々マスメディアを頻りに批判する人がいる。なぜ彼らはメディアを批判するかと言えば、理由は決まって彼らは自分たちをマイノリティだと感じているからだろう。自分たちや自分たちの主義主張がマイノリティでなくていけないのは、こういったメディアが自分たちと違う誤った方向にマジョリティたる大衆を導いているからだと思っているのだ。

ただ一つ留意すべきなのは、NHKとか読売新聞とか朝日新聞とかの個々の報道者を個々に批判するのではなく、こういう按配で社会の存在するメージャーなメディアを一括りにして彼らはよく批判しているということだ、例えば、元首相の安倍晋三氏は、慰安婦問題などに関してたびたび朝日新聞を批判するが、これは個々の報道者に対するものなので、私が示すことには該当しない。

野党が離合集散を繰り返すのは「政党は綱領的統一性を持つべきで、綱領的に一致できないなら解党して、イデオロギー的に純化すべきだ」ということをメディアも正論家も当然のことのように主張するからです。なぜかこの批判は野党にしか向けられません。―――Tweet by @levinassien 2022.1.27, 10:54

例えば、フランス文学者の内田樹氏は、このツイートにおいて野党が離合集散を繰り返す理由として、マスメディアがある事を主張し続けているからだとしており、メディアが立憲民主党などの今の野党を自民党と差別的に扱っていると述べている。

この手の言説は、先の自公政権が勝利した総選挙の後で特に立憲民主党や共産党支持層である内田氏のような革新的言論人の間に多く見られるようになったが、彼らは無意識に自分たちの支持政党などが今回の選挙で苦戦したのはメディアの報道・偏向報道のせいだと思っているのではないか。立憲民主党は先の選挙において、菅政権への批判票を集めて躍進を図ろうとしていて、ところがそのシナリオが菅首相の退任と自民党総裁選という一連の過程で崩れ去ったというのは確かに事実で、9月の間は総裁選の報道の影響で野党は埋没気味だったが、それでも次の総理が誰になるか分からない予測しがたい総裁選への国民の関心は大きなものであり、別にマスメディアの報道の仕方に問題があった訳ではないはずだ。「メディアが自民党の広報板になっている」というのは、偏った視点に立ったものである。野党のシナリオが崩れ去った後なのにも限らず、挙句に果てには以下のような楽観的な記事を公開するのだから、調子の良いものである。

内田樹の研究室:総選挙結果を予測してみた

日本は民主国家であり、独裁国家で行われるような報道される内容や社説が皆同じような報道はされておらず、日本の新聞は朝日毎日に対する読売産経と保革の立場がしっかり分けられているという点で、健全かと言えよう。何もメディアが皆して同じ主張をすることはない。ただ、総裁選のように大衆的に関心がある事は競って取り上げるのみで、自民党が裏で工作をするまでもなく、メディア界を賑わせるものはある。

内田氏ではないが、SNSにて、選挙三日前にNHKニュース7に選挙関連のニュースが無かったことや、首都圏ニュース845で自民党の高市早苗氏が将来の総裁選への出馬意欲を示したことを報じたことをも批判する人がいた。選挙が一大行事であっても、ニュースで報じられるものは政治関連以外もあるわけだし、また将来的に総理を目指す人の動向を1、2分報じることはとても「偏向」とは言えず、これらのことや、それを根拠にメディアが不公正だと示すことは出来ない

総選挙が終わった後、私はたびたび彼ら革新系論壇の発信のうち、メディア批判のものを他にも見てきたが、どれもそもそもメディア全般を批判するべき問題なのか、これはさすがに言いがかりではないか、という面が目立った。それゆえ、私の彼らに対する印象はそこまで良くない。

とは言え、このような過剰なメディア批判が行われるのは革新の人々に限ったことではないというのは言うまでもない。奇妙にも、メディアは保守派からも嫌われる傾向がある。SNSで、保守系のスレッドを一気に覗いてみれば実感できるかもしれないが、たびたびメディアが偏向報道をしていると主張する面々が少なからずいる。また、先の総選挙で、主要政党の獲得議席を報道各社が全て外したことがあった(実際よりも野党有利な情勢だと報じられていた)が、その件に関してもかなり保守ユーザーによる集中的な批判があった。

要するに、メディアは別に保革どっちかのみから批判される訳ではないということを理解してほしい。なお、インターネットで活動する保守ユーザー(俗に「ネトウヨ」という)が主に支持するはずの自民党は現在与党だが、彼ら保守ユーザーは近年特に保守的な傾向を強めており、保守派の中ではマイノリティと解釈して差し支えないと考える。

そして、このメディアを頭ごなしに批判する者たちが求める「偏向ではない報道」すなわち「公正中立な報道」とは何なのだろうか。

マスメディアが提供する情報には、主に二つの成分があるとされている。まず一つ目は「事実」だ。「事実」を伝えるのが第一の仕事であるのだが、その事実は世界に一つしかなく、それ以外のことを伝えればそれは虚構=フェイクニュースとなる。マスメディアが「公正」であるためには、「事実」が合っていればという条件がある。そして、二つ目の成分は「意見」である。これは難しいもので、「意見」は基本的に報道者の「事実」に対する感想であり、それは報道者によって異なり、政治関連のニュースでは主に「意見」は保革の差によって分かれており、これが大手新聞各社の論調に現われる。そして、「中立」的な報道とは、世間にある様々な意見に囚われずに主観を除いて論理的に導き出した「意見」のある報道のことをいうと私は一先ず考えている。

ところが、メディア批判を積極的に行うものたちにとっては、「偏向報道」とは単に自分たちの主張とは異なる趣旨の報道の仕方や、自分たちの主張の根拠の判例となり得る報道を指すに過ぎないと、私は彼らの最近の言説を見て感じる。そして、彼らに「中立的な報道とは何か」と問えば、色々な答えが想定されるものの、私が先ほど言ったのと近い趣旨の返答をする者が多いと思うが、「ではこれは中立的な報道か」と言って彼らの主張に迎合するような報道を見せれば、彼らは思わず「そうだ」と答えるだろう。

そもそも、かつての時代と違いインターネットが普及した今、素人市民でも政治的発信を含めてあらゆる言論を展開できる環境となったのだから、そういうメディアを批判する人たちにだって、一つの影響体としての責任はあるわけで、自分が公正中立な発信を出来ていないのに、メディアに「偏向報道をやめろ」と言っても、どの口が言っているのだという話になる。まずは我が身を省みよ。もちろん等価的に比べるのはあまり良くないが、己とその批判先のメディアとどちらが健全な発信が出来ているだろうかを自覚すべきだ。

少し話が変わるが、ここで注意して欲しいのが、必ずしも「中立的な報道」がベストな報道とは限らないのだ。理論的に、主観を究極的に排除して論理を展開すれば、「事実」と同じように「意見」も一つに収斂してしまう。しかし、現実的に人間は感情がある限り完全に主観を排除することは出来ないのは自明で、どうしてもその「意見」には差が生じてしまい、現代ではそれが保革のイデオロギー対立という形で現れている。そして、何が中立的なのかは益々見えづらくなる。しかし、その保革の言論を正面から戦わせて議論を引き起こせば、次第に真理に限りなく近づくことは出来るということは、前の記事でも述べてきた。

真に中立的と言える意見は生じ得ず、また保革の論戦により真理に近づけるとなれば、保革の差、論調の差が有ることは悪いことではなく、そしてそういう意味ではメディアに「中立性」を求めるのは意味がないことに気づかされる。全体的に言論界が保革均等になっていれば良いのみで、今の日本はそれが保たれている。そして、(事実は一つなので「公正」であることは至上命令だが)真に中立的なメディアなど存在せず、むしろ「意見」の偏りは顕著なものでない限り歓迎されるべきものではないか。更に言えば、自ら「中立的」と名乗る言論人は恐らく真の意味での「中立」ではなく、その言葉は人々を欺瞞する偽りの「中立」だと推測される。つまり、言論人にとっていちばんやってはいけないのは、「自分は中立的な立場から主張する」と自称することではないか。私は自発的にそう名乗る人を最も信用していない。自分の立場を理解せず、自分(の主張)こそ中心に位置する正義だと考える傾向があるからだ。

「中立」という言葉を使わずとも、真に正しいことなど生じ得ないはずの自分の「意見」をまるで「事実」のように扱うことも禁じ手である。先ほどのリンクの内田氏の「総選挙の結果を予測してみた」という記事だが、冒頭に「自民党は単独過半数割れ」としている。なるほど確かにそう予測していた新聞社も目立ち、内田氏の「予測」も現実的に可能性はあった(結果的には外れたが)と言えよう。ところが、その下の文章である。これにはほとんど自民党にとって負になる根拠しか書いていない。岸田政権の支持率は今も50%を越えているのにも関わらず、内田氏はこの記事を書いた時点で総裁選後の自民党について、

 しかし、意外にも岸田新内閣の支持率が菅政権のスタート時点よりも10ポイント以上低い40%台。これは自民党としても大きな読み違いだったと思う。

それだけ過去9年間の安倍-菅政権に対する国民の膨満感が増していたのだ。せっかく看板を付け替えたのだが、有権者の印象は「かわりばえがしない」というものだった。

と、残念ながら、今からしてみればやはり場違いなものとなってしまっている。であるから、とても論理的な分析、そして「予測」とは言えない。というかそもそも本当にこれは「予測」なのだろうか。内田氏は恐らく無意識のうちに、主観を大いに交えて「願望」を書いてしまったのではないか。そうなると実に信用ならないことであり、些細な事ではあるが、「願望」を「予測」と偽ってしまったわけで、それがこういう人の言説の特徴の全体を表しているのではあるまいかと思う。

そして、この内田氏の文章の普通の読者(=革新層)で私が今言ったようなことを指摘する者はいないだろう。その背景には、現在の言論人の多くは誰に限らず、基本的にいつも自分たちサイドの人たち、言わば「フォロワー」と互いに自分たちの主張について納得し、あるいは彼らから支持賛同を得るためだけに言説を広めているという事実がある。そんなことはないと思うかもしれないが、割と彼らの言説は「フォロワー」意識を読み取れる。そこに社会をよくしようなどという精神はもはや失われている。論敵との論戦は出来るだけ回避し、身内だけで互いに納得し満足感を醸成できるだけのコロニーを作ればそれでいいという意識が根底にある。だから、インターネット上で偶発的に大物同士の論戦が行われることは日本では稀有だ。

別にそこまで好戦的になる必要はないのだが、そのコロニーの間で行われる納得・満足感の醸成はただただ自分たちの意見への固執を強め、何が「偏向」で何かそうでないかなど、議論によって社会を進歩させるために必要な礎が失われてしまい、左は極左へ、右は極右へとどんどん移動していくことになりかねない。これらの現象は、インターネットやSNSの特質に由来することと言われており、それが完全に害のみ生じさせるかと言えばそんなことは有り得ないのだが、こういった閉鎖的な言論空間に首丈になることの危うさに、そこで活動する保守論壇も革新論壇も気づいてほしい。気づいているのだとしたら向き合ってほしい。

最後に、日本には健全な議論を出来る空間(=言論の自由)があるはずなのに、そういうメディア批判を止め処なく続ける人々は、「中立的な立ち位置」がもはやどこにあるのか見失った人のような、このコロニーの中で育った成れの果ての姿であると記しておきたい。左は左になる、右は右になるほど、支持層は乖離していき、いつのまにかマイノリティになってゆくにも関わらず、より「極」に近づくほど行動力が高まっていくので、存在感は変わらない。そういう人は、一度「フォロワー」のことなど考えず、自分自身の道に回帰して欲しい。そうすべきだと感じる人は何人も見かける。


ただ、そう私が今まで勢いに任せて書いてきた文章も場違いかもしれない。何も意見を述べてくれる人などはいない、現在「未来ノート」では閑古鳥が鳴いており、ほとんど誰も私の文章を評価しない。誰もいないのは当然の当然のことだが、そこに寂しさを感じる。いつか自由な言論空間に飛び出せたらいいなと夢見ている。

(2022.1.27)


前回:例えは時に害になる

次回:しかしダブルスピーク[二重語法]とは実に相対的な概念である


 

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