2022年4月25日月曜日

未来ノート1周年

 一年前の今日、私はこのウェブログ「未来ノート」のプロローグ記事を書き、そこから私の記事執筆が始まりました。元来、未来ノートでは「理想の未来世界」を追求するために、それがどうあるべきかということと、自分のドラえもん愛とを語っていくという方針でしたが、もともと始めから何を書くというのは決まっていたわけではなく、1年間記事を書き続けていく中で、様々な知見を得、事実に直面し、時には思い悩みさえしましたが、それを通じて自分の心:考え方にも変化が現れてきた、そのような気がします。

この記事は、未来ノートの1周年を挨拶するというものですが、ここではこの1年間に私が得た、現代の世界を知り、語るうえで重要な3つの心掛けについてお話していきます。


正しくあろうとする心掛け

現代世界、そして理想の未来世界を語る以上、大前提となって来るのが、決して利己的にならず常に社会の公益を意識することです。自分や自分たちにとって利になることが、果たして常に集団や社会のための利益であるでしょうか。自分の利益を追い求め続けた時、それはしばしば集団の害となることがあります。自分さえよければ他はどうでもいいという意識は、理想社会を創造するために語っていく中では一番の禁じ手です。まして自分の利に繋がる施策を公のそれと偽って語るのは非常に卑しいことであり、そのようなことをする者は、議論の場から除かれるべきなのです。

理想の社会を作るための最善の施策と推定されるものが、自分の利を一部害するものだったとしても、それを考えついた以上は、議論の場に持ち込んでいく、そのような身を切る勇気が我々のような未来を語る者に求められます。


知ろうとする心掛け

理想の未来社会を追究するための研究は、今に始まったことではありません。今まで多くの哲学者が、それぞれの正義や理想を定義してきました。そして我々はそれらを蔑ろにすることが出来ません。彼らは我々よりも遥かに優れた知能や洞察力を持っていたからこそ、歴史に名を残しているのです。とは言え、雲と泥の差のように、我々と完全に領域が違う、というようなことは無いと思います。我々が無から知恵を見出していくのは不可能に近いですから、少なくとも先人たちが遺した知恵(=哲学的学問)を我々の未来世界追究の基礎として役立たせないといけません

ですから、素人が己の思うがままにああだこうだ持論を語り続けても、それは巷の哲学研究者からしてみれば非常に馬鹿馬鹿しく聞こえるかも分かりませんし、結局先人たちの遺したことの反復にすらならない、つまり未来世界を追究する上で何の知恵にもならないことだって考えられます。報道でよく分からない学者がよく分からない難しいことを喋っているのを聞いたとして、それをどう受け取るか:彼の話す言葉とその意図とを何とか理解しようと努めるのか、難しいからと言ってスルーするのか、それで言論人の価値はだいぶ異なってくるのです。

知ることを大切にしなければ真に正しいことには辿り着けません。本当に正しい理想の世界を追い求めたいのならば、近代哲学を始め、社会学や政治学など、それに関わる重要な学問を、それも満遍なく、学ぶ必要があるのです。知に背くは正しさへの反逆です。


自他を相対化しようとする心掛け

自分、あるいは或る特定の人が主張することが真に正しいなんてことは絶対に有り得ません。そういう人がいたら、その人の言う通りにに理想世界はとっくに完成しています。自分が正しいこともあるけど、時には意見の対立する相手の方が正しいことを述べていることだってあります。自分と主張が対立する人たちとの論争を「正vs誤」「正義vs悪」などという二元的な構図で捉えようとすることは実に愚かなことです。

あるいは、歴史上、今自分たちが経験している論争・意見の対立が発生したことがあったかもしれません。それに対する歴史的な考察を踏まえて、自分は今どのような人たちとどのようなことに関して論争しているのか、自分の主張を据え置いて、自他を客観視する目が必須です。

また、自分とは異なる立場の人の意見に関して、その内容、根拠となるロジック、それらを冷静に分析し、把握・理解することも重要になって来ます。近年日本の言論界に見られるような保革的な対立では、多くのケースで、片方がもう片方のロジックを全然理解せずに批判、あるいは雑な理解を以て批評している、そんな光景がたびたび見られます。当然、それは議論による社会の前進を促しません。まずは相手にだってまともな脳がある事を自覚し、他をリスペクトするところから、議論が、論争が、そして民主主義が始まるのです。

(2022.4.25)

4 件のコメント:

  1. 1周年、おめでとうございます!
    1年でとても考察が深まっていて、成長も見て取れて、若い鋭敏な感性も散らばっていて、読んでいて、とても引き込まれますし、将来への期待も膨らみ、嬉しいです
    今日1日では読み切れないので、(また再度読み直したいものもあるので)明日また来ます。
    (ドラえもんシリーズも、じっくり読みたいので、また、日を分けて読ませてもらいますね)

    この論考、本当にその通りだな、と、思います
    私は議論が白熱することや、政治的な論争は「歓迎すべきこと」だと思います
    (だって、日本の未来をみんなが真剣に考えるからこそ議論が対立したり、白熱するのだから。)
    だから、このように「考え続ける」ことができる人がいることは、とても大切なことで、こういう姿勢でいることができれば、民主主義は国の発展に利すると思うんですよね。
    でも、政治に「無関心」で、「今だけ、金だけ、自分だけ」の考えで、そもそも自分の国がどうなっても構わない、と思っている人が多くなれば、それは、「自分の利益しか考えない人の意見=国是」「勉強せずに、イメージだけで判断する人たちによる政治=マスメディアが世論を作れる国」となり、それは結局国の腐敗や弱体化を招き、他国の侵略や全体主義に転化しやすい衆愚制になると思います
    スリランカも、中国の債務の罠に敗れてしまったけれど、見方によっては、民主主義の弱点を突かれた感じでもあると思います
    どうか、日本の民主主義を守る人財として、ますます成長し、将来活躍していってほしいな、と、期待しています

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    1. コメントならびに激励の言葉、ありがたく存じています。
      この記事では敢えて抽象的な内容を書くのに努めました。自分ではこれが社会問題を議論する上で全ての人が持つべき理想の心掛けになり得ると思っています。しかしここに書いたことが当たり前のように見えても、それを実践するのは大変困難なことです。ほとんどの人は無意識に自己を中心に存在する「正義」「正解」と見なし、他人をリスペクトしません。無意識にです。私も含まれるでしょう。
      あなたが思い浮かべている「政治に『無関心』で、『今だけ、金だけ、自分だけ』の考えで、そもそも自分の国がどうなっても構わない、と思っている人」の具体像は、実際は本当にそうなのでしょうか。彼らだって彼らなりの価値観があるはずです。だからそう行動しているのです。
      本当の民主主義は、民主主義すらこれを相対化します。

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  2. なるほど。確かに言葉足らずですね。ツイッターだと、具体的なツイートを「今だけ金だけ自分だけ」の例として引用して、反論できますが、ここで、この言葉を持ち出すのは抽象化しすぎだったかもしれません
    ご指摘ありがとうございます
    SNSは、自分と似ている人達の考え(自分がフォローしている言論人に共感する意見)が出てきやすいので、自分たちの考えが主流だと錯覚してしまう怖さもありますね。
    私は馬淵睦夫先生を尊敬しておりますが、馬淵睦夫氏が、最後は「自分を浄化せよ」とおっしゃるのも、そういうことなのかな、と、思ったりします
    人は自分ひとりの力では生きていけなくて、誰もが支えあって生きています。
    農家で食べ物を作ってくれる人がいて、それを運んでくれるトラックの運転手がいて、そのトラックを作ってくれる車の工場で働く人たちがいて、その食材を料理する人がいて・・。自分の口に運ばれるまでに、何千、何万という人のおかげで、自分の命が支えられ「生かされている」と私は考えています。でも、そういう周りの人の労に対して、人は無頓着になりがちで。(身近な存在で言えば親などが際たる例で、ものすごい労力をかけて育ててもらったことを、多くの人は忘れがちです)
    だから、「今だけ、金だけ、自分だけ」の考えの人、というのは、「自分を生かしてくれている多くの人達の労に思いをはせられない人、多くの人の恩に感謝ができない人」を指す意味で使わせてもらいました。
    だけど、私自身も、コメ主さんがおっしゃるように、時には思い上がり、時には傲慢になり、時には、世の中で生きている人の苦労や価値観に無関心になってしまうことが多々あり、私自身の身から正すことが大切だということかもしれませんね。自分の至らなさを反省します(おそらく、今まで無意識のうちに多くの人を傷つけてしまう不用意な言葉を発してきたと思うし、他人の不幸に無頓着だったり、他人の苦労に気づけないで来たこともたくさんあったと思うから。)
    人間は永遠に完成はできないものですね。
    ただ、自分が不完全であることは認めながらも、
    一方で、私は「生まれ変わり」を信じている人間でもあります。
    自分の言動に、ずるさや汚さ、「他人をおとしめよう」「罠にはめよう」といった嘘や、偽善などがあれば、他人にはばれなくても、いつか(死後も含む)必ず罰があたる、と思っていますし、罰があたってしかるべし、とは思っています。
    やはり自分より心清らかな人が極楽浄土に生まれかわるべき(多くの人にお世話になり、衣食住困らずにここまで生かしてもらった私のような人間よりも、国を守るために戦争で若くして散っていった英霊たちなどが、せめて死後、幸福になるべき)、と思っていますし、仏教的な観点で言えば、自分は覚者になれていないから、生まれ変わりを繰り返して、今、ここに生きているのだと考えています。(仏教では「解脱すると、生まれ変わらなくなる」と考えられています)
    年齢にかかわりなく、心美しい人は、私よりも極楽浄土に近い人間だと思っていますし、ずるい心を重ねて生きれば、自分も地獄に落ちるとも信じています(どこか特定の宗教に属する属さないは関係なく、心の美しい人は天国に行けると信じています)。若い人の純粋さに触れて、反省させられることも多々あります

    何が言いたいか、というと、民主主義は「多数の意見=正義」となりますが、私は「多数の意見」という「正義」に裁かれるではなく、「神仏に裁かれたい」と思っている人間だということです。
    (多数決による)民主主義は「独裁」という最悪の状態を防ぐという意味で「良いもの」だとは思いますが、ソクラテスさえも処刑に送るような恐ろしい面もあります。イエスキリストが十字架にかかったのも、ユダヤ人による多数決です。ユダヤ人による多数決で、(思想犯として)イエスは処刑されました
    人々が「正しさ」とは何かを考えずに、「自分だけがよい生活ができれば正義などどうでもよい」と考えた時には、その多数決も「絶対の正義」を示すものではない、と考えています。
    だから、民主主義が発展していくためには、最低限「この国をよくしていきたい」と考えてる人が多数でなければならないと思います。その「よい国」の理想が共産主義のような「平等」を思い浮かべる人もいるだろうし、「夜警国家思想」にみられるような「自由」に共感する人もいるだろうし、「ジェンダーフリー」とか「肉食のない自然環境にやさしい国家」だとか、「キリスト教的な伝統文化」とか、価値観が多種多様であるのはかまわないけれど、少なくとも、「自分の利益のためには、他者が不幸になってもかまわない」という人が多数になったらその民主主義国家は腐敗すると考えています。
    奴隷制がなくなったのは、奴隷制をよしとしない価値観が多数となったからなわけで、安価な奴隷労働で生きていた人達が「今だけ、金だけ、自分だけ」を考え、そっちが主流のままでいたなら、奴隷制が廃止されることはなかったわけですから。
    だから、ウイグルの奴隷労働を利用して利益を上げている人達が、せめてウイグル人の人権に配慮する気持ちを、もってくれたらいいのに、というような思いで書きました。もうちょっと具体的に書くべきでした。
    でも書き直して自分の意見が明確化具体化させられたのは良いことです
    考えさせられる点もありました
    指摘、感謝します


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    1. 返信ありがとうございます。
      民主主義がこれからも多数決の下に成り立っていくことを受け入れるのならば、多くの人々に「この国(集合体)を良くしていきたい」と思わせることにより、民主主義の腐敗を防ぐのは、有りだと思います。
      ただ、やはりソクラテスの件に端を発し、20世紀ドイツの全体主義化など、多数決的な民主主義は歴史上多くの災禍を招いてきたことは周知の事実です。私としては、民主主義というものをそもそも多数決的な考えから脱却させなければいけないな、と思っています。
      民主主義とは、言葉を分解すると、「民」が「主」体となって政治議論に携わることであって、必ずしも多きが勝つシステムではないはずだと考えています。重要なのは如何に濃い議論が出来るかどうか。それに関して詳しくは今年2月の未来ノートの記事「多数決文化との決別」で記した通りです。あるいは、私が尊敬する政治学者の宇野重規氏の著した『民主主義とは何か』にもこれに関する言及があります。
      いずれにせよ、私は民主主義を守るのは、民主主義自体の変革にも依ると日々感じています。

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