2022年8月13日土曜日

三点忌食

親鳥は、産んだ卵の上に座って、雛が孵るまでそれを温め続ける。それを親鳥の子鳥に対する愛情だとかいうのは誤りだ。実際は、親鳥は卵の上に座すことによって体が冷えて気持ちいいからそうしているだけなのだと言われている。繁殖期になると、親鳥は胸から腹にかけての羽毛が抜け落ち、そこは裸の状態になる。そうなると親鳥は自然にそこの部分=抱卵斑を何か冷たいものに当てたくなる。それで卵が温まるのは結果としての話だ。

というか、これは進化の結果である。繁殖期になると、抱卵斑が形成され、そこでひんやりさを求めてそこを卵に当てる種しか生存してこなかったのだ。あくまで、親鳥がこうした形で卵を温めるのは、遺伝子に刻み込まれたプログラムに過ぎないという訳だ。

ハリガネムシは寄生虫だが、水中で生まれて水生昆虫である最初の宿主に寄生した後、それが陸上でカマキリに捕食されると、そのカマキリの中に移動し寄生して、その中でカマキリの脳を操り、水に飛び込ませる。宿主のカマキリが水に入ると、ハリガネムシは尻から脱出し、まもなくそこで交尾を始める。

このような、一見人が作ったかのように思われる複雑で芸術的な生物の生活史も、これも当然このような種が生存しやすかったという進化の結果に留まる。別にハリガネムシがまるで高い知能を持っていてカマキリを入水させているわけではない。ハリガネムシの中にたまたま、カマキリを水面の光の反射に敏感にさせるたんぱく質を分泌する種がいて、それだけが生存競争を勝ち抜いてきただけという話なのだ。

今この星には数多の生き物が生息する。本当に文字通り多種多様な枝分かれで進化してきた。まるで神が創ったかのような精巧な営みを続ける種もある。でもこれは現代の科学では進化論という話でほぼ説明がつく。

ダーウィンは19世紀に進化論を提唱したが、しかし彼はその自分自身が書いた論文を本当に正しいとは思っていなかっただろう。彼は自分のロジックは現時点で考え得ることのなかで最も真理に近い仮説、逆に言えば後世にもっと信頼できる、進化論に代わる仮説が現れた時は、それは廃れるべきだとし、科学の絶対性を否定していた。ただ、それでも後世の科学は彼の理論をより強固なものへとしていって、現代へと至っている。

その進化論に基づいた説明をした時、動物の心の中、正確に言えば脳内に「愛」は存在しない。もちろん「愛」にとどまらず、他者を陥れようとする邪悪な心も、錯乱に満ちて他者を傷害する狂気の心も存在しない。我々が見ているのは、全ては遺伝子というプログラムに基づいた行動なのだ。しかし、先ほどの親鳥が卵を温める理由など、そうした事実を現代の人々に説明しても、なかなか納得してもらえない。あるいは、残酷だ、知りなくなかったという返答が待っている。

でもそれは、繰り返しになるが、現代の事実だ。彼らは否定することはしない。でもこのような言葉で抵抗する。なぜ?どうして人々は動物の心の中に感情があると置いてしまうのか?


答えは非常に簡単。動物には目と鼻と口があるからだ。

人間は、知識としてそれは人間ではない獣だと知っていても、たびたび目、鼻と口がある動物に対して、それを人間の顔に見立てて、思慕の情を寄せることがある。それは太古の時代から何となく続いてきた人類の感情・思想だと思うが、その中で、人間はたびたび周りの獣たちを、人間のように感情を持ち、理性に基づいて行動するモノだと捉えてきた。古代の神話やイソップ寓話なんかにも、頻繁に動物が登場人物として、主人公の人間に関わって来る、そうした話のパターンが全世界に見られることが証左だ。

一方で、完全に無いとは言えないけれど、人間が擬人化するのは周りにいた目、鼻と口がある動物を中心としていてそれに留まり、例えば草木など植物や、それらが付いていない無脊椎動物に対してはあまりそういう営みは無かった。人間の思慕の対象になったり、感情を持って行動することを想定されたりはしなかった。そういった植物などは、常に人間にとって無機物同然の「物」だった。

そして繰り返すが、その「人」と「物」の線引きは、目と鼻と口が付いているか否かという基準が主であった。しかしそのような風潮がある反面、人類というのは雑食の生き物であるという性質は逃れられないものであるため、長い長い歴史の中人々は動物を家畜にして食料としてきた。これはある意味人類が「人」を食べてきた恐ろしい事実とも解せられる。そこに矛盾があったからこそ、歴史の中で(一部の)肉食を拒否する風潮と、肉食を推進する風潮が同時に形成されていった。

科学が発展し、浸透してきた前述の進化論も踏まえて、動物が「物」とされていった現代において、前者は世界的な宗教として少なくとも形式的に受け継がれていて、後者はカニバリズムとして廃れていきつつある。

さらに現代でも、一部の人々は倫理的な理由から菜食を貫く。しかしその「倫理的な理由」では、前提としてまるで動物たちを人間のように感情があり、愛おしいものだと認識しているところがある。だがこうした菜食主義者たちは、「食べてもいい」動物と「食べてはいけない」動物とを何の差で分けているのだろうか。最も考えられる典型的な分類は、「目」「鼻」「口」の存在ではないか。

このような分類の仕方は真に人類による恣意的なものだ。個人的に思うところとしては、倫理的な理由による菜食は、人間だけでなく動物にも福祉を享受させようとするという一見脱人間中心主義的な理想を掲げながら、その動物の基準を人間からどれだけ離れているかというところで決めているという矛盾をはらんでいると感じられる。

ここからは私個人の価値観の話になって来るが、私は現代において、人間以外は全て「物」だと捉えていいと思っている。逆に人間は全て尊重しましょうと言うわけだ。人間以外のモノを何か「物」ではないモノと捉えてしまうと、その線引きが難しくなり、時には上記のような深刻な矛盾が生じるから、嫌いだ。言ってしまえば、動物に福祉を与えることを倫理とするのは依怙贔屓のようにも感じ得る。ただし人間が人間以外のモノを「物」として捉えた時発生した代償は人間自身が被ることとなるだろう。

もちろん私は動物に思慕を寄せることが馬鹿馬鹿しいとかやめるべきだとかは思っていない。例えば、動物愛護法なんて言うものは現代社会にとってもかなり必要なものだと思う。人間が動物を愛し、動物が人間を愛しているように見立てるのは、今までの人類が引き継いできた遺産・伝統文化のようなものだ。だから、私は我々が古来からの言葉や芸術を愛でるように、そうした現代にも濃く残るかの風潮や感性を大切にし続けることは必要だと考えている。

(2022.8.13)


以上の文章は私が一時的に思いついた論理を特に検証なしに書き付けただけものだ。だから私は今ここに書いたことを正しいとは思っていないし、もしこの文章に異議が付けられたとしても、反論することは出来ないので、その点についてはご了承願う。また、質問等も受け付けるのは難しい。


0 件のコメント:

コメントを投稿

コメントを投稿される際は、未来ノートの「運営方針」に示してある投稿ルールを確認していただいて、それを遵守されるようお願いいたします。投稿内容によっては、管理人が削除する場合があります。

選抜記事

多数決文化との決別【未来ノートコラムA・第12回】

多数派がいつも正しいとは限らない、それはいつだって  小学校の算数の授業で、アナログ時計は一日に何回長針が短針を追い越す(=重なる)かという問題が出されたという。選択肢は、21回、22回、23回、24回、25回の5つであった。 当然ながら、答えは22回である。算数的なテクニックを...

多読記事