2022年12月19日月曜日

安全保障と民主主義 その2【未来ノートコラムB・第14回】

2022年も終わりに近づいている。本ブログ「未来ノート」では昨年と同様にこの12月に日本と世界とを巡る安全保障情勢の総括記事を書こうと思う。昨年の記事では、世界情勢に関連して、新冷戦、民主主義の優位性などについて述べた。今年いちばんの国際社会に影響を与えた出来事は、ロシアによるウクライナへの侵略だ。今年は、これらの出来事の経緯を踏まえたうえで、日本が採るべき安全保障政策の具体像に迫ってみよう。


ウクライナ戦争を考察する

ロシアがウクライナ領土へ「侵攻」を開始してから、10か月が経とうとしている。そもそもこのロシアの侵攻計画というのは、侵攻が起きる前から、前年の2021年中にはその可能性が西側諸国のマスメディアで大々的に取りざたされていた。ソースは米国経由のものであったため、少なからず米国の外交的な意図もあるのではないかと憶測が憶測を呼びこんでいくかたちとなったが、2月24日、遂にそれが現実のものとして進行していくこととなった。

当初の戦況のシミュレーションは、ロシアの圧倒的有利が主流の結論だった。キーウは2日以内にロシア軍によって陥落するだろうと。実際いざ侵攻が始まった後も、2、3日の間はキーウの陥落可能性を報じる報道が見られた。しかしこの「電撃」的な作戦は、結果としてロシアは断念を余儀なくされた。開戦1か月後の3月末には、ほぼロシア軍がキーウの攻略を断念したと見られるようになった。

なぜこのように、予想に反して、ウクライナが善戦するというかたちになっているのか。その理由としては第一に欧米側のウクライナの軍事支援にかかる要因が非常に大きいと考えられる。しかしここで浮かび上がるのが、なぜウクライナという国が同盟関係が無かった国々からの支援を取り付けるのに成功しているのかという疑問だ。特に開戦前の予想のように、ウクライナの勝算を立てづらい状態の中で、欧米諸国が支援を施すメリットはない。別にウクライナが民主的国家であるのだから守るのは当然だ、という論理を立てるのも苦しい。

私としては、それは戦争初期のうちにウクライナが自国の「勝算」を劇的にあげることが出来たからではないかと推測している。これにより欧米への株を取り付けられたという格好だ。これにはもちろんロシアの初動作戦の読みの甘さ、ウクライナがとった初動防衛の作戦の的中など複雑な要因が絡んで、このような結果になったと言えるので、一概に核心的な理由があるとは今のところ断定しづらい。強いて言うなら、ウクライナ軍側がこの日のために着実な準備を重ねられていたということが考えられる。いずれにせよ、このような開戦2、3日間の戦況が、その後数か月の戦況や国際世論に多大なる影響を与えたのは事実だろう。

ウクライナの善戦の理由はそれだけではない。ウクライナは、ロシアと比べて、相対的に倫理面でも優越していた。まず、ロシアが外交紛争の解決という目的のために軍事力の行使という手段を講じた時点で、相対的にロシアの倫理面での国際的評価が下がった。そして、ウクライナは政治混乱が続いていたとはいえ、言論の自由がある程度保護され、民主主義を基調とする政治を指向していた。そのため、これが国際社会によるウクライナを支援すべしという世論に還元された。また、ウクライナ国内においても、国民がウクライナ政府を支持し、戦意を維持する原動力となった。

反面、ロシアは長年の間プーチンによる独裁政治体制が取られていた。戦争初期のロシアの勝算は高く、戦争が長引くことによる国民の負担の増加が不満の増加へつながることを考える必要は無かった。ところがプーチンが独裁者であるがゆえの考えの浅はかさが初動作戦の失敗の遠因となり、そして戦争の長期化、厭戦気分の増大化へと導いてしまった。一方、プーチンは軍事力の行使によるリスクを抑えるために、電撃的作戦を用いる以外に、もう一つ策を持っていた。それは「大義名分」の存在とその宣伝であった。

例えば、これはNATOの東方拡大に対処するための自衛的な作戦であるとか、ウクライナ国内のロシア系住民の保護のためだとかいう話である。これらの「大義名分」は、西側諸国のメディアでは「ロシアから見たウクライナ戦争」というかたちで紹介された。日本の中でも、西側諸国からみた視点の誤りを糺し、世界の「真」の実態を覗くべきだという主張も散在していた。

だがこれらのほとんどは、実際の情勢の変化や自由な言論によってことごとく淘汰されていった。実際の戦況は、プーチンが自国民に示してロシア国民がイメージしてきたものとは程遠い、非常にロシアにとって苦しい状況となっていったからだ。3月にロシアの国営テレビにスタッフが反戦メッセージを込めたプラカードを掲げるという事件があったが、これは「ロシアからの視点」の真正さを徹頭徹尾否定する裏付けとなってしまったと私は思っている。我々も、ロシア国民も、多くは「テレビ」を経てしか現地の情勢、はては世界情勢の構図の変化を観察することは出来ない。ところが、そのうち「ロシアのテレビ」は内部からその欺瞞性が暴露されてしまったのだ。個人的に、この出来事はロシアの相対的な倫理面での優位性をさらに押し下げるものとなったと考えている。


日本の防衛政策の検討

さて、私は今年起きたこのウクライナにおける出来事は、日本の安全保障を考える上でも大いに参考になると思っている。しかしここで注意しなければならないのは、ウクライナと日本は「同じ」ではないこと、つまり「ウクライナは××だから、日本も××だ」とは一概にも言えないこと、それを頭に入れて議論に入れて議論していきたい。

まず、「反撃能力」すなわち自衛隊が相手国領域内のミサイル発射地点をたたく能力を保持すべきかどうかという議論が存在する。従来のように、相手国のミサイルを直接迎撃するミサイル防衛システムは、技術的な限界が指摘されており、相手のミサイル基地を直接攻撃することで、ミサイルの発射自体を阻止しようというのが当初の「敵基地攻撃能力」の構想だった。しかし、例えば北朝鮮が「実験」を公開した移動式発射台であったり、潜水艦からのミサイルの発射などにはこれでは対応できない。そのため、呼称を「反撃能力」に変更したうえで、ミサイル基地にとどまらない相手国内の軍事目標を行使の対象に広げるという話に至ったわけだった。

「反撃能力」は、ミサイル発射そのものを阻止するというのが趣旨であるため、相手国の攻撃が始まらなくても、相手国が武力攻撃に着手したのを観測すればそれを行使できるとされている。ところが、その「武力攻撃の着手」を適切に判断できるのかという問題点が存在する。想定されることとしては、例えば宇宙から基地を衛星で観測したり、軍事物資の流れを観察したりして攻撃の「予兆」はつかめるが、これらは「武力攻撃の着手」を認定できるだけの根拠にはなり得ない。

そこで、ウクライナ戦争の事例を参照してみよう。実は、東京新聞で3週間前にこのような記事が上がっていた。

東京新聞:ウクライナは専守防衛…敵基地を攻撃すれば何が起きるのか 市民が犠牲、強力な武器を使われる口実にも

この記事には、

林氏(注:林吉永元空将補)が危ぶむのは、軍事的正当性を巡るせめぎ合い。例に挙げるのが、侵攻されて以降ロシア領域内に攻撃、反撃したとの明確な情報がないウクライナの対応だ。

との記述がある。ウクライナはこの戦争において専守防衛、すなわちロシア基地を直接攻撃するような作戦をとっておらず、これがロシアによる核兵器を始めとする強力な破壊兵器が使われる口実を作らせていないのだとしている。また、ロシアが軍事施設へのものだと主張している攻撃が、実際には民間人の犠牲者を生んでいるのではないかとも指摘している。

しかしここで一つ言えるのは、ロシアによる攻撃で民間人の犠牲者が出ているのは、ロシアがウクライナの軍事施設を攻撃するにあたって、軍事目標をを識別できずに誤って民間人を攻撃しているからではなく、そもそもロシアは最初から民間目標を対象に攻撃を行っているということだ。これはロシアが戦争が長期化する中でウクライナの戦意を削ぐために意図的に行っているものであり、遅くとも3月からロシアの作戦に組み込まれていたものである。もちろんそんなことは国際法上許されることではないので、当然ロシアは公式には軍事目標への攻撃だと言ってすり替える。このことを、軍事目標への攻撃を最初から構想している「反撃能力」と並べて議論するのは不適である。

また、ウクライナがロシアの基地を直接攻撃することはないというのは、正しくない。開戦翌日である2月25日には、ウクライナとの国境近くのロシアの基地であるミルレロボ空軍基地で、ウクライナ軍による越境攻撃が行われたという情報がある。その後もウクライナは相手領域内での軍事行動の阻止を試みており、今月5日には、「ウクライナへのミサイル攻撃にも関わっている戦略上重要な拠点」である複数のロシアの空軍基地に対し、ウクライナ軍による無人機攻撃があったということが報道された。

このように、相手領域内で自国への攻撃に供するための軍事目標を攻撃することは、戦時においては、通常の作戦のなかで行われるものであり、相手による報復を招くリスクが特別に高くなるというわけではない。ただ、敵の第一撃を待たずして「反撃能力」を行使するのは、依然としてリスクが高いし、そもそも保有していても行使できないと思う。ウクライナ戦争を考えてみても、ウクライナは2月24日の開戦直前にはほぼロシアの侵攻をを確信していたのに、ロシア領域内での阻止はこのシチュエーションだと先制攻撃ととられかねるので(尤も先制自衛という概念もあるが)、不可だった。実際に台湾有事、朝鮮半島有事を考えた時も、自衛隊が最初に「反撃能力」を行使できるかは、直前の情勢次第になるだろう。

敵から日本への武力攻撃が発生した場合における自衛隊の最大の任務は、国内の被害を最小限に留めることだ。ところがもしその「第一撃」がミサイルであった場合、発射されてからの迎撃は困難であるし、発射前の阻止は「先制攻撃の宣伝」というリスクが存する。そして私は何よりも、一般論として、こうした有事ないし戦争において自国が有利であるためには、自国の倫理面での優越を確保する必要があると思っている。前述のように、ウクライナが欧米からの支援を取り付け、孤立無援化を防げた背景の一つには、相対的な倫理面での優位性があったからだと言える。であるから、有事・戦争を「より良い」かたちに、つまり後に禍根を残さないかたちに終結・処理するためにも、「第一撃の阻止のための先制自衛」よりも、「倫理面における優越を常に確保する作戦行動」を重視したい。

あまり政治の論壇には上がることは少ないが、日本の核武装論というのがある。相手の「第一撃」を抑止力をもって阻止できる可能性は上がるが、核廃絶の流れを倫理面で優とする国際社会の流れで、これを採るのは、あまりにも無策過ぎる。これができるのは、このような国際秩序が根本的に崩壊した混沌たる情勢に世界が陥った時に限られるが、今のところそのような状態になる流れはない。ゆえに、日米同盟を基軸として、欧米諸国やインド、オーストラリア、韓国、台湾などと包括的な協力関係を結び、倫理的な優位性を持ちつつ抑止力を持っていくのが、日本の安全保障政策において、もっとも有効的な手段と言えるのだ。

(2022.12.19)


参考サイト


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