2022年12月30日金曜日

弧を生きる

 近現代社会の複雑化は、民衆にマスメディアへの依存を強制した。今を生きる人間たちのコミュニティの繋がりは、より広範囲に拡大し、そして世界をも一つに統合しようというグローバル化の動きさえ今現在加速している。人間一人ひとりの価値・能力の意味がこれにより薄まっていく。残念ながら、現代を生きる人々は、巨視的な視点でなければ観察することができなくなった社会全体の動きを、もはや各々の力で捉えることはできなくなった。そして、その「視点」を独占するようなかたちで発達したのが、マスメディアであった。

こうして、多種多様な性質を持つ人々の集合体は、いとも簡単に巨大なメディア構造によって安定化されられた。一方で、安定化の対価として、マスメディアに依存する社会は、常に「暴徒化」のリスクをはらんでいる。なぜなら、マスメディアの「正確性」が、民衆に担保されていないからだ。現代の国々のほとんどの社会構造において、民衆がメディアに与える影響というのは、制度化されておらず、常に民衆に代わってメディアに多大な影響力を持っているごく一部の集団に、不公正な制御を受ける可能性があるのだ。

とは言え、それでも戦後の民主主義社会では、自由な言論が保証されていたこともあって、マスメディアの持つ「視点」の多様性は、十分に保護されていたように私は感じる。つまり、社会全体の事象を報道する権力は、完全に一つに統合されるような状態にはならなかったというわけだ。

ところが、21世紀に入って、これに加えて新たな地殻変動が現代マスメディアの在り方を大きく変容させるようになる。インターネットの登場だ。インターネットは、地域と世界の統合の流れの中で懸念されていた、個人の価値が減少するという問題を、払拭したかのように思えた。インターネットを通じて、従来寡頭的に独占されていたマスメディアの権力を、個人が報道者に成り代わることによって、どんどんと解体していくという動きが、急速に広まっていた。

しかし、その運動が生んだのは、対権力への団結ではなく、元来思想や指向がばらばらであった個人が無造作に行動したことによる、分断された社会だった。それでも、彼らは自分たちが分断されているということには気づかず、誰もがひたすら互いこそ旧権力の残滓だと罵り合うようになった。その罵り文句に利用されたのは、「マスメディアの欺瞞性」という虚構だった。

将来の社会において、個人の力を最大限に高めることに必要なのは、まず「独立性」である。つまり、自分が他の誰よりも違う気質を持っているのだと認識し、そのように行動すること。特にインターネットを介した社会で新たに生成される「同調圧力」、言い換えれば「同調への誘惑」に屈しないこと。自分を肯定する者がいるのは心強いと感じられるし、自分が何か大きな集団に属している事実は、何となく自分の価値が上がったように己を感じさせる。だがこれらの自分への利潤は、全て幻想に過ぎない。仲間の多さ、自分の組織の強大さは、人間の持つ不確かな感覚器官により紡がれた偽りの「正しさ」であるのだ。

我々にとって重要なのは、この何者に属することも一種の恥だと考える「独立性」の心構えと同時に、自分とは異質の者への「寛容性」も持つことである。現代人がスマホを使い続けることによって視野が狭くなってしまうように、異なる者との接触を避け続け、そして同調者と共に過ごす時間が長くなることによる結末は、自分の持つモノに対する「視点」を極めて限定された範囲に固定化する。難しいことではあるが、この「独立性」と「寛容性」を常に同時に保有していくことこそ、社会全体に影響を与えていくかつての「個人の力」の復興の第一条件と言えるのではないか。


将来現代民主主義がどのように変容し、あるいは他の価値観に淘汰されていくのかは私には予測できない。予測できない以上、今は今受け紡がれている価値観を蔑ろにし、完全に否定するようなことをするべきではない。ただ、人間とは全コスモスの視点でみれば儚い生き物であり、あらゆる正義や倫理観といったものも、人間が生み出したものである故に、その儚い範疇に入るものだ。それを肯定したうえで、では現代の人間のあり方を考えるなかで、そんな虚無的な考え方・視点をベースとしていいのだろうか。私たちが人間である以上、儚いなりに、その理想を創り上げるのは、人間にとっての責務とは言い難いが、価値が無いことではないはずだ。

今回は、マスメディアと民衆のあり方について、歴史の中の民主主義を考えるという視点で、超巨視的な文調を用いて書いてみた。

(2022.12.30)


0 件のコメント:

コメントを投稿

コメントを投稿される際は、未来ノートの「運営方針」に示してある投稿ルールを確認していただいて、それを遵守されるようお願いいたします。投稿内容によっては、管理人が削除する場合があります。

選抜記事

多数決文化との決別【未来ノートコラムA・第12回】

多数派がいつも正しいとは限らない、それはいつだって  小学校の算数の授業で、アナログ時計は一日に何回長針が短針を追い越す(=重なる)かという問題が出されたという。選択肢は、21回、22回、23回、24回、25回の5つであった。 当然ながら、答えは22回である。算数的なテクニックを...

多読記事