2022年12月31日土曜日

2022年の最後に

 今年もあと二三時間で終わりそうだ。昨年の大晦日にも、「2021年の最後に」という題で一年の振り返り記事を書いたが、今年は昨年のその記事よりは手短にまとめようと思う。

まず世相について。今年はウクライナでの戦争が、世界の出来事を中心となって動かしていた。詳しいことは「安全保障と民主主義 その2」などの記事で書いたが、一つ私が感じたのは、やはり今の国際社会では「倫理観」に優越していることが、非常にこちらに利をもたらし得るのではないかということ。もちろん、ロシア側にも自分たちなりの「大義」があったはずなのだが、現在の物質的な戦況や、世論などの情勢を見る限り、それは倫理的に優であるというには及ばないものであるということなのだろう。

とは言え、言い換えれば、それはいつ倫理的な優越性が利益をもたらす時代が終わるかは分からないということともとれる。もちろん、何が倫理的に正しいかというのは、初めから決まっているものではないし、絶対的な正しさは存在しない。ただ、前よりは良かった、これよりは良かったなどという相対化・比較による評価はある程度可能なところがある。そういう価値判断の仕方を自分でしてみて、世界を私は理解してきた。

今まで、私たちが「戦争」を議論したとしても、結局は「起こらないと分からない」ということで、議論の価値はそこまで高くはなかった。さらには、「戦争」という忌まわしいものを議論することさえ忌避される風潮もあったかもしれない。だが、今回のウクライナ戦争は、「戦争」とはどんなものなのか、悪い言い方をすれば、現代戦争のモデルとして、日本や世界の言論界に大きな影響を及ぼした。

「影響」と言えば、今年の7月には、安倍元首相が演説中に銃撃され殺害されるという衝撃的な事件が起きた。もう半年近くにもなるのか。この事件で逮捕された容疑者の動機は、旧統一教会の絡む不適切な金銭授受に苦しむ家庭で育った容疑者が、教会に関係がある人物として、安倍氏を狙ったというものであった。

これが明らかになると、事件は政界に二次的な影響をもたらした。宗教法人として不適切な献金を強いていたとされる旧統一教会と関係を持っていた政治家が、特に自民党所属の者を中心として、厳しい追及を受けることとなったのだ。当然、政治家が旧統一教会と関係を持つということは、その不適切な行為を黙認しているとも言えてしまうからだ。

旧統一教会を巡る問題が世に隠され続けるよりは、存在する問題として世で議論された方が良いのは当然だ。しかし、そのきっかけは、安倍元首相が殺害された事件、つまり紛れもない殺人事件なわけだ。

世の中に、事象を良し悪しの二元論で語るようなある種の風潮が残っているからこそ、この事件と、この問題とに関する本質を、我々はつかみづらい現状にある。例えば、統一教会の問題が明るみにでることは、相対的にはプラスと評価される一方、安倍氏が殺害されたことは、現代社会においては当然マイナスと評価される事象だ。にもかかわらず、人々はこの事件と問題とを一つの事象とみなしてかつ、絶対的な善悪をもって判断してしまう。旧統一教会の問題が明るみに出ることを評価するのと、容疑者の行動を評価するのとを一括して考察するのは、その二元論的な思考方法に基づくものではないだろうか。

個人的な話にはなるが、私は、物事に関する具体的な取り決めや細かい事項について話すのは苦手だ。それよりも、ゆっくりと時間をかけて、事象に対する巨視的な分析を通じて、より多くのことに共通する抽象的な結論を出す方が楽しいように感じてきた。だから、このウェブログ「未来ノート」においても、例えばウクライナ戦争のことをとっても、あまり現地の戦況がどうとか国際世論がどうとか、具体的な分析はそこまで試みて来なかった。

ただ、一方で現実は、小さな小さな出来事が、あるいは非常に短い間にして起こる出来事が、大きく全体に作用を及ぼすように作られている。ウクライナ戦争にしても、私は開戦当初の数日間が、その後の戦局を大きく分ったなと思っている。詳しいことは、「安全保障と民主主義 その2」の記事で記した通りだが、とにかくここで言えることとしては、もはやこういった抽象的な物言いの仕方には限界があるのかなということだ。

私にとっては、2022年は、広く、そして深い知識を持つ重要性を認識された一年だったとも言える。もちろん、目先の表象的な出来事に追われずに、木を見てかつ森を見られるような、そんな分析をすることによって、自分の思考を活性化させ、限定されたパースペクティブに捉われない自分を作る、そんな目的で私は「未来ノート」を書いてきた。でも、今までやってきた方法が本当に適切なものだったのか、具象を見る目が欠けているのではないかという点において、疑問がわき始めているところだ。


最後に私生活について。今年も「行動力」が足りない一年だった。人生が進むにつれて、自由に使える時間というのも少なくなってきている。また、だんだん自律の箍も緩んできているような、そんな感覚を日々覚える。そう言えば、好きなはずの『ドラえもん』のアニメを観る時間も、減ってきている気がする。これも実を言えば、自分の中では、自律の意志の力と行動力の問題とだと考えている。


今年の前半には、藤子不二雄Ⓐ先生の訃報があった。他にも、我々が今まで影響を受け続けてきた様々な著名人が亡くなるというニュースが、例年と比べてではないが、ひと際多かったように感じる悲しい一年でもあった。彼らが私たちに遺したものは、決して「古い物」で終わらせられるものではない。そもそも今有る、そして将来有り続けるであろう物は、その「古い物」を土台として作られているのだし、優れた物はそのままのかたちで継承していかなければならないと私は思っている。言い回しとしては違和感を感じるかもしれないが、これらの物は「古典」という、前人たちの感性を生きたかたちで保存した貴重なものだ。彼らが遺していった「古典」は、将来には今と同じような楽しみ方はされないかもしれない。でも、それ以前に、これらを「学ぶ」意味が存在するのではないかなと。それらに込められた「感性」はいつ役に立ってもいいのではないかと。私はそのように感じている。


2023年はどんな一年になるのだろうか。私の心の中には、来てほしいものとして描いている2023年と、来てほしくない2023年が存在する。来てほしい2023年をどう楽しみ、来てほしくない2023年をどう乗り越えるか。2023年の私は変化できるのか。

今想像もできないような出会いがあることを期待している。

(2022.12.31)


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