事実認識を整えるのは非常に難しい問題だ。前提として、世界は常に多種多様な事象が途切れることなく連続的に発生しており、因果関係が至る所に存在する。それはまるで植物の「根」のように複雑で、秩序が無く、そして捕捉するのが難しい。それでも人類は、いにしえの時から何とかそれを秩序付けようと、観察、実験や思考実験などを経て、科学を発展させてきた。
そうして、この混沌とした「根」の集合体であるこの世界を細部まで分解しながら観察し、現代の科学はここまで発展してきた。ここにおいて、現代の科学は、本質的には「根」のように混沌している世界を、どうにか秩序を持つ「木」のような構造に組み直そうとした試みによって成立していると言える。しかし、数千年の時を経て、人類が科学の核心へ迫るに迫るうちに、せっかくつくった「木」の構造さえも、いつの間にか「枝」のような混沌とした構造に戻ってしまった。
どういうことかというと、科学の発展が、遅くとも近代以降において、一般的な人々の認識を以てしても捕捉しがたいほど難解で複雑なものへなってしまったということだ。日本人の何割が特殊相対性理論を過不足なく説明できるだろうか。日本人の何割がDNAの複製の手順をきちんと説明できるだろうか。日本人の何割がフェルマー・ワイルズの定理が成り立つことを説明できるだろうか。
恐らく多くの読者の方々は完全に説明できないものと私は踏んでいる。とは言え、そのような現実は、別に嘆くべき事でも何でもない。だって、上記の事柄は、科学として既に地球上のどこかで明らかにされているのだから、地球上の誰かはそのことについてよく知っている。これにより、一般的な人々も、学ぼうと思えばいつでもその科学にアクセスできるのだ。
科学が発展する以前、世界には混沌とした「根」しか存在しなかった。それは、非常に複雑な構造をしており、かつ地表からは観察しにくいものだった。それでも人々は、「根」を掘り起こしてなんとか観察しようとし、その成果として「根」の上に「木」を形作っていった。まずはそれを投影した単純な「幹」からだった。しかしこれは正確に現実を投影したものとは言えなかった。だから次第に、正確な投影が目指され、「木」は結局「幹」からより複雑で混沌とした「枝」に分化していったのだ。
だがその「枝」と「根」とには、地表に現れているかいないか、つまり誰でも学ぶ意志を持てばアクセス可能かそれとも持っても不能なのか、という決定的な違いがある。現代の多くの国々の教育システムは、「枝」、つまり複雑に分化した科学は、現代の人々には手に負えないので、教えないか、あるいは教える部分を限定化して選択させる。いわゆる大学とかの「専攻」といったようなものか何かだ。
これは、事実認識についても同様のことが言える(より正確に言えば、「事実認識を研究する」ことこそが科学である)。現代において、報道は事実をより抽象化した形で人々に伝えるようになっている。それは、本来混沌としている「根」のような事実を、「幹」のような形で抽象化して分かりやすく人々に伝達しなければ、メディアとしての意味がない故のことである。ところがこれでは、混沌とした現実を正確に投影したことにはならない。その「根」をもとに「幹」を形作る過程で、どこかに捨象されなければならない「根」の一部分が存在するのだ。
これはマスメディアの能力の限界である。マスメディアは分かりやすい抽象的な事実認識しか伝えることが出来ない。でも仕方のないことだ。そして嘆くことではない。「根」から「幹」が出来上がる過程を精査できる環境があれば、それでよいのだ。
陰謀論者はよく主要マスメディアでは語られないような事実が存在すると言うが、実はそれはマスメディアの報道過程で捨象された「根」そのものである。そうして、彼らはその捨象された「根」の一部分である、マスメディアの報道に反駁するに足るような事実を持ち出してくる。そしてこれを以て、マスメディアが抽象化して出した結論である「幹」の部分、つまり一般に知れ渡っている事実は誤りや偏向だと言うのだ。
ところが実際には、マスメディアが「幹」という名の報道内容を形作るにあたって、捨象せずその根拠とした「根」というのが、「枝」として、陰謀論者が持ち出してきた「根」よりも遥かに多く存在するのだ。「主要メディアが報道しない彼らにとって不都合な事実」があると言うのだが、本当は、「主要メディアが報道しない彼らにとって好都合な事実」というのも十二分に存在する。なぜなら難しすぎるからだ。
陰謀論者の正体は、基本的には凡人どもだ。彼らは、混沌とした「根」を操るエキスパートのふりをして、マスメディアが捨象した事実の一つである「根」の一部を拾い集めて独自の事実認識を形成させるが、拾い集めたその「根」は、世界に存在する「根」の総量や、あるいはマスメディアが「幹」を形づけるのに用いた「根」の総量よりはるかに少ない。陰謀論者の言葉や専門用語の使い方、事実認識の奥深さなどをみれば、彼らの学術的基盤は、一般的なエキスパートよりも全く脆弱なものだと言っていいと私は感じている。
しかしそれにもかかわらず陰謀論が一定の人気を保てているという事実は否めない。なぜだろうか。先ほど陰謀論者はほとんど凡人どもだと書いたが、実は、そうでなくても、この世界に生きている人はほとんど凡人なのだ。つまり、混沌とした事実が絶え間なく蠢いている世界を捉えることが出来ない人々のこと。それでも、これは決して恥じるべきことではない。逆に、「根」、すなわち世界の混沌とした事実、これらを完全に捉えられる人間、つまり凡人に対するエキスパートと呼ばれるような人たちというのはごく僅かな人々だ。基本的に、マスメディアとそれが形づける事実認識というのは、こういう人たちによって支えられている。
そして、エキスパートは数で陰謀論者、つまり偽エキスパートには勝てない。それにより、エキスパートは陰謀論を否定するのには時と労力をあまり費やさない。一方で、主要なマスメディアの提示する事実認識を信じる人々も凡人である。結局陰謀論者対それを否定しようとする人々の争いは、凡人対凡人の水掛け論となる。こうして陰謀論者は正面から徹底的に否定されるようなことは現代社会においてほとんど無くなる。
このような社会において、凡人である我々が陰謀論に対処するにはどうすればいいのだろうか。
1つの方法は、自分が真にエキスパートとなり、世界の混沌とした事実を捕捉しまくり、ひたすら学識を身に着け、陰謀論者の不完全な事実認識を徹頭徹尾攻め続けることだ。しかしこれは長い労力と年月を有するし、人によっては難しいと感じる人が多いかもしれない。
2つ目の方法は、陰謀論者を完全に放置すること。面倒なことには首を突っ込む必要はないということだ。いやいやもし陰謀論者の言うことが本当だったらどうするのだと思う者がいるかもしれない。そう思ったら、あなたが陰謀論者になればよい。どちらの道を選ぶにせよ、凡人が「根」たる混沌とした事実という慣れない玩具で遊ぶことになるのだから。
未来がある人なら、1つ目の方法を選んだほうがいいかもしれないと私は思っている。もちろん、誰が人生として何を選択するかは人それぞれの自由によるものだから、根拠とかはない。あくまで私の感想にとどまるわけなのだが、他の人はどう思うのだろうか。ただし、1つ目の方法がもし仮に採れない社会となってしまえば、それこそ真に忌まわしいことである。
ところで、今回は私はこの文章で「具体例」というものをほとんど提示してこなかった。確かに、論理的な論旨を目指す文章において、「具体例」は説得力を大いに強化する必須ツールだ。しかし今回の場合、凡人である私が、「具体例」という名の、「世界に混沌として存在する事実」に首を突っ込めば、まるで自分をそれを扱えるエキスパートのように錯覚してしまうリスクがある。これは、陰謀論者の典型的な症状だ。
今回扱った世界を「根」に喩え、科学を「木」に喩える世界観や、マスメディアの構造観、凡人とエキスパートにまつわる事柄などについての私の考察、納得していただけただろうか。2023年、「未来ノート」はこれからもこのような記事を上げていく予定だ。
(2023.1.6)
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