2023年1月24日火曜日

同一性を示すのに意味は無い【未来ノートコラムA・第18回】

 民主主義を通じて政治的な議論を効率よく進め、共同体において共同の結論を出すためには、いくつか意識しておかなければならないことがある。

その一つが、「同一性を示すのは無意味」ということだ。具体的にどういうことだろうか。

例えば、ある人物が、リンゴを見て「このリンゴはイチゴのように赤い」と主張したとする。つまり、「リンゴ≒イチゴのような赤さ」と言っているわけだ。それに対して、別の人物は「いやいや、イチゴの赤みというのはもっと鮮やかだ。このリンゴはイチゴではなくむしろイチジクの赤みを持っている」と主張する。そうしてある一つの命題を巡っての対立が起こる。

さて、この議論決着するだろうか。本質的には、世界には完全に同一のものは存在しない。粒子レベルで見た時、どう考えても「リンゴの赤み」≠「イチゴの赤み」となるはずだ。だから、そのことを踏まえれば「リンゴの赤み=イチゴの赤み」を示すことは不可能である。では、「リンゴの赤み≒イチゴの赤み」という命題ではどうだろうか。つまり、比喩(メタファー)のような言い回しを含む命題だ。ある人は「リンゴとイチゴはどちらも赤いではないか」と共通点を挙げるのに対し、別の人は「鮮やかさが違うだろう」と相違点を挙げる。要するに、比喩を含む命題は、そうでない命題とは違い、個人個人の感性や価値観によって、それを是とするか否とするかの結論が異なってしまうのである。こうして、議論は平行線をたどるわけだ。

世の中には本質的に同一のものは存在しない。だが一方で、類似点を持つものは多く存在することは確かだ。それを指摘した議論に反論しても、その是非を巡る結論は個々の人々の感性などに依存するわけであって、世間一般の共通の結論を見出す、つまり議論に決着を出すのはなかなかに難しいものであるのだ。

もう少し例を具体化していこう。

ある人が「政治家Aはナチストのようである」と言ったとしよう。しかし実際に政治家Aはナチズム運動にかかわった事実は一切無いと一般的に認識されているので、当然本質的には「政治家A≠ナチスト」である。もちろん、その人も「政治家A=ナチスト」と言いたいのではなく、「政治家A≒ナチスト」、つまり政治家Aがナチストと共通点を持っていることを指摘して、世論に注意を喚起したり、レッテル張りを通して論戦を優位に進めたいのかも知れない。そしてその根拠として「政治家Aは排他的民族主義を肯定していたことがある」とか「弁舌で世論を欺瞞している」などという事実を挙げる。

一方、この命題を否定する手段として、「政治家Aはイスラエルと親交が深い」というような事実を挙げるのは悪手である。なぜならば、命題は「政治家A=ナチスト」ではなく「政治家A≒ナチスト」と言いたいゆえに、多少それを否定する別の事実が存在したとしても、この命題を完全に否定することは出来ないからだ。そして、命題を肯定する根拠となる事実と否定する根拠となる事実と、どちらの方が多ければ、命題は肯定あるいは否定されるかというのは、完全に個人の感性などに依存してしまうのだ。もし命題を否定したければ、肯定側が挙げた根拠となる事実そのもの、例えば「政治家Aは排他的民族主義を肯定していたことがある」という事実とかそのものを否定する必要がある

このように、「AはBのようだ」すなわち「A≒B」などと比喩を含んだ命題が提示された時、これを「肯定する根拠」と「否定する根拠」とが生じる。しかし、その両者を互いにいつまでも強硬に主張し続けても、議論は平行線をたどるのみである。ならば、否定する側は命題自体ではなく、それを「肯定する根拠」に対して疑義を訴えるべきであるし、肯定する側は「否定する根拠」に疑義を訴え、より多くの人々に納得してもらえるような議論をするべきである。だが結局、この命題の真偽を、世間の共通認識となる結論として出すことはほぼ不可能である。なぜなら、その結論を決める過程は、人々の個々の感性に依存するからだ。

だから、私はむやみやたらと「AはBのようだ」などと比喩的なものを用いた言説を唱えるべきではないと思っている。もちろん、そもそも哲学というものは、事象と事象との間に同一性を見出そうとする傾向の強い学問とも言えるから、時には本質的に異なるもの同士に結びつきをみとめるようなこともしなければならない。しかし、メタファーの含まれる言説を、それ以外の言説と混同して論戦の場にて取り上げるような現代社会の傾向は、好ましくないものだと私は感じている。

(2023.1.24)


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