2021年5月17日月曜日

時を生きる

 人は、いつか生まれていつか死にます。これは、人類だけでなく全ての生き物にとっての不変の掟です。しかし、生き物の中で、「時間」という概念を知っているのは、知能を持っている人間だけです。

医師の日野原重明氏は、1980年代からこどもたちに「いのちの授業」を展開するようになりました。というのも、彼は1970年に発生した「よど号ハイジャック事件」の遭難者で、この事件に遭ったのをきっかけに、自他の命について考えるようになったといいます。

そして、日野原医師は、「いのち」の正体を「時間」だと捉えていました。少し違和感を感じるかもしれませんが、「寿命」というのが「××年」と言えることを考えれば、必然的なものです。

誰でも、持てる命には期限があります。毎日過ごして、流れていく時間だってその一部なのです。時間は、誰にだって平等に毎日24時間ちゃんと与えられているのです。その時間を、どう使うか、いつ終わらせるかは、その本人が決めるべきことなのです。


あなたに自分の命以上に大切なものはないでしょう。これを言い換えれば、あなたに最も大切な物なのは「時間」ということになります。そこで重要なのが、時間をどう使うか、と言うことになってくるのです。

時間なんて今日も明日も明後日も明々後日も、ずっと毎日24時間流れて来る、××日は一日23時間しかないよなんてことは有り得ないから大丈夫、なんて思っていませんか?確かに、流れて来る「時間」は毎日同じものです。しかし、過ぎ去った時間はもう永遠に帰ってこないのです。

時間は、毎日同じものが流れてきますが、それに伴って流れて来る、自分の周囲の動きや社会の動き(=情勢)は毎日全く異なります。江戸時代の人々には、インターネットなんてありませんでしたが、ちゃんと70歳くらいの寿命を全うしていました。現代人も70歳くらい生きて死んでいきますが、それでも江戸時代の人々が体感した「時間」とは全く異なる「時間」の体験を、現代人はしているわけです。時代、または場所によって、人間の「時間」の使い方は、同じ「××年間」の寿命なのに、全く異なるのです。


ここでいきなり話題を変えますが、こういう「命」と「時間」について考えてゆくと、どうも「死刑」のような生命刑も「懲役刑」のような自由刑も、変わらないもののように感じて来るのですよね。

死刑は単純に罪人の命を奪う刑罰ですが、懲役刑や禁固刑だって、罪人の自由に使える時間を奪っているのですから、当然これは罪人の「寿命」を減らしていることと同じなのです。つまり、罪を犯して有罪になった場合、たとえ死刑でなくても、刑務所に収監されるということは、それだけ自分の自由に使える命を減らしていることに値するのです。


そして、話を戻しますが、ようするに言いたいことは、失われたそれぞれ異なる時間は、二度と戻ってこないということなんです。

例えば、とある人が15歳から35歳までのあいだずっと家の中で一歩も外に出ず過ごしていたのと、65歳から85歳のあいだ家に引きこもっているのとでは、また失った時間の意味が違ってくるのです。

人生の中で、時間は常に一定のスピードで流れていますが、ですが流れて来る時間それぞれには全く違う意味があるのです。例えば、ふつうは人生の中で大切な親御さんと過ごせる時間は限られてきます。人生ずっと通して親が生きているというのは普通はないことです。

親が他界した後に、もっと親孝行しておけばよかったと後悔する人が時折います。このように、人生の中でも、10歳の自分が過ごした時間と70歳の自分が過ごした時間は、全く価値や意義が異なってくるのです。

ですから、「時間」は明日も明後日も24時間やって来るけど、今あなたが生きているこの「瞬間」というのは過ぎ去ったら二度と訪れないということを心に留めておくべきなのです。

そしてもう一ついやなことに、年を取るにつれて、時間の価値が薄れていってしまうということがあるのです。分かり易く言いますと、人間は年を取るとだんだん時間が経つのが早く感じられるようになる現象があるのです。

この心理的現象をジャネーの法則と言います。要因として考えられるのは、年を取るにつれて、一年が同じことの繰り返しになり、人生に飽きてきてしまうからということが考えられます。これに基づく、心理的な人生の中間地点はなんと18歳だそうです。

しかし、僕は考えるには、先ほど言った人生の瞬間瞬間を大事に生きている人であれば、そういうのをある程度は防げるのではと考えます。だって、よく考えてみれば、一年が同じ繰り返しのように見えるのは、あくまで人間の感覚であって、周囲の社会の動きは一年一年で全く異なりますから。

ともかく、人生は限られていて、しかも時間は二度と戻って来ず、さらに年を取るにつれて人生の残り時間が減ってゆきます。人生を全うし、命を全うし悔いなく生きるためには、自分が「時」を生きているということを自覚し、その人生の瞬間瞬間を大事にし、悔いなく過ごすことが重要なのではないでしょうか。

この記事を読んだあなたは、是非「今」を生きている実感と共に日々を過ごしてみてください。そのためには、日々自分の周りについて「考えてみる」ことが必要になってきます。

(2021.5.16)

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2 件のコメント:

  1. とても、良い文章ですね。読みながら、仏教の禅の時間論に通じるものを感じました。時間は多分一直線に流れるものではないんだろうと思います。時間の「質」を高めることが、悔いのない人生につながる、ということなんでしょうね。面白い話をありがとうございました

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    1. コメント・評価ありがとうございます。自分にとって、年を経るにつれて早くなっているような気がするのは、やはり止めようとないことのようです。それでも、少しでも時間の流れを遅くしたいなら、何か新しいことを知ってみるというのが、その有効手段の一つだと思います。

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