2021年9月19日日曜日

天理と知識人【未来ノートコラムA・第6回】

今回は、私が今の世界や日本の政治社会がすべきことについて、ニーチェなどの哲学を中心にまとめてみようと思います。最後まで読んで頂ければ幸いです。

天理をひたすら追い求める

明治初期に、明治政府は今後日本を近代化させていく上での基本方針として、「五箇条の御誓文」を発表しました。当然、「御誓文」のかたちなので、天子(明治天皇)が天の神や皇祖皇宗に対する約束をするという形式がとられましたが、重要なのはその内容です。その第一条が次の通りです。

広く会議を興し、万機公論に決すべし。

五箇条の御誓文の起草加筆修正に参加したのは、福井藩士由利公正、土佐藩士福岡孝弟、そして長州藩士木戸孝允、この3人でした。この第一条の条文はどういう意味かと言うと、「広く会議を興す」とは、もともとは日本全国の藩や県で会議をするという意味であったらしいのですが、その後自由民権運動の論客たちによって、「平民も会議に参加する」という意味へと解釈が変えられていったのです。言わば、この文が戦前民主主義の根拠となったわけです。

そして、後半部分の「万機公論に決すべし」ということですが、これは起草者の同僚で、朱子学者であった横井小楠の思想に由来するものだそうです。「万機」は「あらゆる重要事項」、「公論」は「公開された議論」という意味になります。「人々による開かれた議論」が行われることによって、政治は成立すると考えたのです。ではなぜそう言えるかと言うと、横井は、この世の万物に通じるような法則、すなわち「理」(ことわり)の存在を信じていて、それを議論によって明らかにするのが政治だと考えたからです。

私に言わせれば、民主政治とは「自分たちが進むべき正しい道(=理)を、多くの人が参加する議論によって明らかにする」ことであり、その民主政治こそがベストな政治方法だということになります。

ここからは、私の解釈になりますが、では「理」を議論で明らかにするにはどうすればいいのかというと、1つは誰もが自分の意見を言えるようにしなければなりません。そのためには、その国に言論の自由が必要になってきます。

もう1つは、「正しい道」を明らかにするには、よりそれを探し出しやすい人、すなわち専門的知識を持っている人の方が有利になるのだから、当然多くの人が知識を持っている必要があるということです。つまり、こういう民主政治を実現するには、正しい知識を得られる健全な教育が要るのです。その健全な教育を経て、知識を十分身に着けた人は、知識人として大いに民主政治に貢献することが出来ます。

更に言えば、人々はより知識人の意見に耳を傾けるべきだ、と私は思います。昨年から続くコロナ禍対策に必要なのも、科学的な政治だと言われており、政治における科学者や知識人の重要性が高まっていますが、誠実に科学に基づいて「理」を探し出す手助けをしてくれる知識人を、われわれはある程度リスペクトしなければなりません。

一方で、であるのなら「非知識人の意見は尊重しなくていいのか」ということになりますが、そうではありません。なぜなら、一つは知識人と非知識人の線引きは難しく、一般に非知識人の人々にも、「理」を見つけるための手助けをしてくれるような素晴らしい知恵が宿っている可能性が否定できないからです。要するに、全ての人に可能性がある、ということです。だからこそ、「広く会議を興す」のが重要なのかもしれません。


知識人へのルサンチマン

知識人は、当然その自分の知恵を、昔から自分自身の生活のためにも使ってきたわけですから、歴史的に見ても、豊かな富を築いたり、政治の場において権勢を奮ったりすることが出来ました。言わば、知識人であることは、「強者」たるために必要な条件だったのかもしれません。

一方で、強者がいるもとで抑圧されて来た「弱者」は、知識人ほどに知識を持ってはなく、富も少なく、貧しい生活を送っていました。そうなると、自然と彼らは自分たちを支配する強者に対する反抗感情を持ちます。これは、ルサンチマンと呼ばれるもので、強者が権勢を奮っていると、自分たちは何もできないがそれを憎み、その強者が権力を失うなどすると、弱者たちはそれに快感を覚えます。貴族などが公開処刑されるのを、平民たちが娯楽として楽しんだのも、そのルサンチマンの感情に由来すると思われています。

そして、実は、そのルサンチマンの感情は、大昔に存在していたものではなく、今の現代社会でも、人類共通の習性として存在しているのです。

「ルサンチマン」の概念を使用した哲学者フリードリヒ・ニーチェは、人類の歴史上、あらゆる形においてルサンチマンが現れているとしています。先ほど挙げた貴族の公開処刑の話の他にも、キリスト教などの「弱者を救う」ような宗教や、現代の文学作品やドラマ作品などにおける政治批判なども、元はと言えば根源にルサンチマンが存在します。

このように、ルサンチマンの風潮は、長い間弱者を正しいものとし、強者を悪しきものとして描いてきました。しかし、そのせいで、弱者は強者になることを諦め、弱者はずっと弱者のまま成長しないという悪循環が発生したというのです。逆に、ニーチェはルサンチマンを放棄し、弱者から強者になりあがった者を「超人」と定義しました。

繰り返しますが、このルサンチマンは、現代日本でも、「知識人や有名人、政治家などの権力者に対する非難」などという形で現れています。それを象徴するのが、「上級国民」という言葉です。東京五輪のエンブレム策定問題や、東池袋での交通死亡事故の際にネット上で多く用いられました。その「上級国民」に対する批判の妥当性はともかく、批判者の多くは「上級国民vs一般国民」の闘争を意識しているようで、そこにはルサンチマンが宿っているように感じます。

しかし、自分が知識なり権力なりを持っているからと言って、それだけで非難されたり、あるいはそれが原因で妥当でない批判をされたりするのは、その「上級国民」側からすれば不合理なものです。今の日本社会には、そういうルサンチマンの風潮がかなり蔓延しており、それを出来る限り取り除かなければ、社会全体の進歩や言論社会の進歩は期待できません。

そして、「上級国民」という言葉を連呼し、仲間の支持を(主にネット上などで)集め、ひたすら不当な非難、あるいは中傷を有名人等社会的な有力者に向けている輩は、永久に「下級国民」として過ごし、その人生を終えることになるのです。

(2021.9.19)


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