2021年10月14日木曜日

朝日だけではない【未来ノートコラムA・第7回】

 昨月29日に行われた自由民主党総裁選挙では、新人の岸田文雄氏が勝利し、その後すぐに党総裁として役員人事が決定され、彼が総理大臣に就任する翌月4日までには、彼の内閣の人事がだいたい定まっていた。

一方で、総裁選一夜明けた30日夕刻、朝日新聞が「自民党の岸田文雄総裁は萩生田光一文科相を官房長官に充てる方針を固めた」という旨の報道を行った。「~する方針を固めた」というのは、そうなることが決定的だということを示す時に使われる報道表現なので、官房長官は松野博一氏になった訳だから、結局この朝日の報道は誤報となってしまったわけだ。

デイリー新潮(Yahoo!ニュース):岸田新内閣人事 官房長官人事で朝日が“誤報” 政治部長が萩生田文科相に謝罪

上のデイリー新潮の報道および萩生田氏のブログによれば、その後朝日新聞からは政治部長が萩生田氏に謝罪したそうだ。しかし一方で、朝日新聞は当の読者向けには謝罪や訂正を行ってはいない。その代わり、以下のような記事を出している。

朝日新聞:官房長官人事 萩生田文科相起用の方針は調整の結果、松野元文科相に

正直、このような報道の仕方はアウトのような気がする。政治部長が謝罪したということは、誤報と認めたことになるが、読者向けにはこのようなアナウンスをしておらず、「萩生田氏起用の方針が変更された」ということにしてある。果たして岸田氏が当初そういう方針をしっかりと示していたかどうかは定かではないし、これはごまかしと取られても文句は言えないだろう。


一方で、このような朝日新聞の一連の報道について、SNSやインターネット上からは、「左翼はいつも自分の誤りを認めない」という趣旨のコメントや、朝日新聞によるかつての慰安婦報道に関する誤報と結び付けるコメントなどが散見された。恐らくこれらのコメントは、インターネット上で活動する右派言論人(ネトウヨ)から発せられたものだと思われるが、それにしてもこちらも安直である。

内閣官房長官など、新内閣が発足しそうな時に、このような重要人事を一早くスクープしたり、速報を流したりするのは、朝日新聞に限らず、毎日や読売、産経、そしてNHKなども競って行っていることである。その中で、政治記者が確認ミスや怠慢などで結果的に誤報を起こしてしまうのは、当然朝日だけでなく他の報道者でも起こりうることだよね

朝日新聞は、革新系の新聞として、保守系の読売や産経に対応する日本の言論界の一翼を担う重要な新聞である。もちろん、このような重要な報道社である以上、上のようなごまかしと取れる事後報道は許されないものであるが、一方で、これを全く無関係の過去の報道と結び付けたり、あるいは朝日にしか起こり得ないものと喧伝するのは、単に朝日新聞を過剰に攻撃したいだけであるかのように見える。俯瞰的ではない、醜い行為は、日本の言論社会の発達に悪影響を与える。

過去に私は「歴史の教える真の教訓を導く諸事実」という名の記事を投稿した。その中で、

結局歴史上起きた大規模な失敗や犯罪は、誰もが犯す危険性があり、人類の誰もが自分事の教訓として学んでいかなければ、同じ轍を踏むことになりかねません。現代において、過去に過ちを犯された方が、今現在過ちを犯しています。これは、アイヒマンの例で紹介した「自分たちは犯罪者のせいで酷い目にあったが、自分たちは奴らとは違うので、あのような事は犯さない」という誤った錯覚、けれども本能的に起こる錯覚に起因するのです。

と述べたはずだ。上の引用の「歴史上起きた大規模な失敗や犯罪」を「報道者による誤報」、「人類」を「言論人」などと読み替えて頂ければ、お分かりだろう。あの記事では、歴史問題についてしか扱わなかったが、私が今回言いたいのは、これをもっと抽象化したもの、つまり「誰もが犯すであろう過ちは、自分のための教訓と捉えるべきで、その過ち犯した人だけがするようなものと捉えることは避けるべきだ」ということだ。この「過ち」というのは、法律で罰せられるような犯罪だけでなく、ちょっとした過失による望ましくない事態など、広義なものを含む。

このような「過ち」に対する正しい認識・考え方が、うまく社会に浸透していないのが、今の日本、とりわけ言論界の課題なのではないか。


(2021.10.14)


3 件のコメント:

  1. 朝日も、吉田清二問題以来、改革が進んだのは確かだと思いますね。去年だったかな、中国の核の危険性を訴える記事が朝日から出ていましたので、ブログ主さんのおっしゃる通り、朝日だけが偏っていて完全な親中メディアかといったらそうでもなく、そういう記事を載せたりして中立になろうと努力しているのかな、と思ったりします
    ただ毎日新聞などは、中国共産党に多額の広告料を得ているのは明らかになっていますし、同じ印刷所で印刷されている聖教新聞も、公明党は、日中友好条約を結んだ時の立役者でもあり、池田大作氏は中国共産党からたくさんの名誉賞を与えられていますから、毎日新聞などから
    中国共産党の政府の意向に反する記事が出てきにくいのは確かでしょう。(ウイグル・香港への人権弾圧批判決議にも反対していましたから)
    観光業関係者を票田としている二階派も、中国からの観光客を呼んで、日本の経済の原動力としようとしているような人達は、中国共産党を批判したら、観光客を減らされて、票田を失ってしまいますので、二階派支持のメディアなども
    あからさまな中国批判やgototravelなどの観光業支援政策批判はできないのでしょう。

    どの新聞も結局中立ではなくて、一定の政治スタンスを持っているし、スポンサーの顔色をうかがって記事を書くので偏りが出てしまうのは当然ではあるのでしょうが、それにしても、偏りがあまり行き過ぎると、読む側としては興ざめしてしまうし、批判の声が高まると、信用を失って読者が減っていきますので、読者が減らないように、それなりに、保守的な記事とリベラル的な記事と、両方載せるように工夫してはいるのではないか、と個人的には思っています。
    でも、安倍さん暗殺時の一面報道のタイトルが全紙同じだったのを見た時には、さすがに引きましたね笑
    戦時中の日本みたいです
    結局各報道局で独自の視点で書く自由があるならば、バラバラになるはずの見出しが、全て同じタイトルで揃うということは、メディア自体が全体主義化している、ってことだと思います
    本来は、メディア同士が違う政権を持ち、違うスタンスでいる自由があるからこそ、言論競争や討論によって、質の高いメディアが生き残り、偏向の激しいものが淘汰されていくことになるのに、「競争の原理」がメディアの世界に働いていないというのは、怖いことだと思いますね

    返信削除
    返信
    1. コメントありがとうございます。
      一つ、あなたがこうした大手新聞社と政治組織の関係性の存在についてどこから情報源を得ているのかは存じませんが、例えば「中国共産党から多額の広告料を得ている」という事実から、「共産政府の意向に反する記事が出にくい」という事実は一見成立するように見せますが、あくまで推量される因果関係のうちの僅かな一つとして見るべきでしょう。
      この世には様々な関係性を持ち、様々な感情・利害を持つ人々が何億と住んでいます。その何億もの人々の意向が絡み合った混沌たる世界を、単純な物語で捉えてそれを唯一の既成の事実のようにして次なる推論をしていけば、事の真相を必ず見誤ると私は思います。現にあなたは残念ながら、それにしか出来ていません。
      一つ、安倍氏の暗殺事件の一報の見出しの件なのですが、ええ確かに大手新聞5社の一面見出しがみな「安倍元首相 撃たれ死亡」で、それが話題になりましたね。でも言いますが、その事象からなぜ「メディア自体が全体主義化している」という結論が出せるのですか?逆に1社でも違う見出しならよいのでしょうか?
      私が考えるに、別に報道される「事実」factが一緒であることはほとんど問題ありません。逆にそれに対する「意見」opinionが全部一緒であれば、それこそメディアの全体主義化です。見出しというのは、時に「意見」が入り込むことがあります。2015年安保法案成立の時の見出しがその典型例です。
      でも今回の安倍氏の事件の報道は非常に速報性が高いものですから、そもそも「意見」を見出しに入れることを必要としていないのです。というか載せる余地すらありません。
      では何が問題か。私は、とある一報道社が、ある特定の主義主張のみの「意見」opinionしか載せていないこと自体はほとんど問題視していません。何がダメなのかと言えば、一つは「事実」を捏造すること、一つは自分の「意見」を絶対に正しく中立であるとして譲らないこと(なお当然ながらさすがに自メディアの無偏向を謳うことは批判すべきではない)、そしてもう一つは社会が一つの主義主張の「意見」のみで構成されている状況であること、この3つを想定しています。そして最も重要なのは、我々がその中で出来るだけ多くの報道者の報道を手に取ることだと感じています。
      これが私のメディアのあるべき姿に対する一つの考えになります。

      削除

コメントを投稿される際は、未来ノートの「運営方針」に示してある投稿ルールを確認していただいて、それを遵守されるようお願いいたします。投稿内容によっては、管理人が削除する場合があります。

選抜記事

多数決文化との決別【未来ノートコラムA・第12回】

多数派がいつも正しいとは限らない、それはいつだって  小学校の算数の授業で、アナログ時計は一日に何回長針が短針を追い越す(=重なる)かという問題が出されたという。選択肢は、21回、22回、23回、24回、25回の5つであった。 当然ながら、答えは22回である。算数的なテクニックを...

多読記事