2022年1月26日水曜日

例えは時に害になる【未来ノートコラムA・第10回】

 前々からこの手の記事を書こうと思っていたが、遂に憂えていたことが起きてしまったので、書き起こすことにした。

毎日新聞:菅直人氏、維新を「ヒトラー想起」とツイート 橋下氏、松井氏は猛反発

ヒトラーと言えば、第一次大戦後のドイツに現われ、国民からの支持を受けて権力を掌握し、ホロコーストなどの非人道的な行為を行いながら、ドイツを破滅的な戦争へと導いた悪名高き独裁者であるが、菅元首相は、日本維新の会の創設者橋下徹氏やその党に関して、そのヒトラーを想起させるとTwitterで表明したのだ。

政治的意見が対立する相手に対して批判をするときに、相手を何か良くないものに例えることがあるが、その説得力を上げるためには何に例えたかが重要になって来る。また、野党が政権に就いている与党を批判する言葉として、非民主的だとか独裁的だという言葉もしばしば見られる。しかしながら、あくまで当然ながら今も民主国家であることは自明であり、国際的にもいつもそう認識される。であるから、国内で日本の民主的な政権を独裁的だと批判するのは実にナンセンス極まりない事であるのだ。

一政治家に対しても同様であり、単に批判するためだけにヒトラーという強烈な言葉を使うのは、批判ありきで全く意味がない。そうTwitterに記した菅本人も本気でそうは思っていないだろう。だから、彼のツイートは無責任たることを否めない。

また、相手(政権、政治家)に良くないイメージを植え付けるためのみの手段としてこういう言葉を用いることによって、別方面で悪影響が生じることがある。

  • ①批判される当人への誤ったイメージ
  • ②例えたものの深刻さが失われる
  • ③例えたものにまつわる歴史認識を誤る

菅氏の今回のツイートは、単に相手を批判するためだけに、このような悪影響までをも及ぼす行為とも言えよう。そもそも批判というのは相手の短所を公に指摘して改善をするよう促すために行うのが基本線である。その批判という公のための行為がこういう悪影響を生じさせれば、それは批判ではなく、①のようにもはや相手を傷つけるためだけの中傷に過ぎない。

更に今回菅氏は彼をヒトラーに例えたわけだが、それに限らず、ヒトラーのような人類に対して深刻なダメージを与えた者を使って批判を繰り返し、こうした言説が広まれば、②で挙げたようにヒトラーが人類史にどんな禍根を残したか、あるいは③のようにそれにまつわる歴史、ナチ党政権下のドイツではどのような社会現象が起きていたのか、など、記憶に残すべき歴史事実が軽視される可能性が十分考えられる。

別にこの菅氏のツイートだけを責めるつもりはない。このツイートでなくても、あるいはヒトラーでなくても、このような構造の過剰な批判―時には中傷にもなり得る―を行うことは、言論社会を後退させるものだと私は考える。

何が良くないかと言えば、相手を批判し、そして攻撃するために、印象の大きい言葉をいくらでも多用していいという意識である。言葉は選ばなければならない。特に、何か物を物に例えたけれども、その例えが適切でなかった時、それは説得力を持たない言説になるか、あるいは聞き手や読み手を欺瞞する害となる可能性があるのだ。例え話を多用する人がいるが、その人は自分の都合の良い結論を導き出すために、全く場違いな、本質に程遠い例えを使ってきていることが有り得る。そして例えを使った言説をするには、なぜその例えが適例なのかを同時に示す必要があるかもしれない。

ついでに書いておくが、現在の日本の政権や首脳、あるいは地方公共団体の首長などに対して、独裁政治だとか独裁者だとか、あるいはその政治手法が弾圧だとか言って批判をするのも、その多くは場違いなものだと推測する。ある政治手法が独裁的だとされても、民主国家においてだって自由が時には制限されうるだろうし、あるいは個人の行為に対する咎めもあるので、それは「自由」と「公共の福祉」との線引きの仕方が問題なのであって、その線引きが適切かどうかは国際的な評価が必要になる。例えば、ある宗教団体に国から解散命令が出た時に、その宗教団体が宗教弾圧だと主張して抵抗したとする。この時、その国が民主国家であると国際的に認識されていれば、公正な措置の可能性が高く、逆に権威主義国家だと認識されていれば逆に不当な措置である可能性の方は高いというわけだ。

現に、日本は国際的にも民主国家であるとされており、特に最近は、強制的な措置を伴わずにCOVID-19抑制を行ったことは高く評価されている。今の野党に限らず、野党が与党や他の党を独裁政治に結び付けて批判するのは、そういう本質を見誤ったもので、極めて狭い視点に基づく言説ではないかと思う。

また、他にも「マスコミの情報統制・偏向報道のせいで~」のような言説も、最近SNSなどで保革問わず見られてきているが、日本で大きな権力による情報統制などは行われていないし、マスコミそれぞれの論調が偏ることは仕方ないことだ。なお、マスコミの在り方については、またの機会で述べる予定だ。


筆をとり、あるいは私のようにデジタルに自分たちの意見を表明する言論界において、それらは社会の改善を目的としていることは言うまでもなく、忘れてはならないことだ。しかし、少なくとも今の日本においては、多くの人のそういう意識が薄れている気がする。それとも、武器によって人と戦ってきた人類の歴史は今、言葉の刃によって戦うものへと変貌しているのだろうか。

(2022.1.26)


前回:人類史終わりへの肯定と疑念

次回:メディア小論


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