2022年1月15日土曜日

人類史終わりへの肯定と疑念【未来ノートコラムA・第9回】

人類史とは何であったか

 人類の歴史、少なくとも近世以降の人類史は、イデオロギー闘争の歴史だったと言われています。イデオロギー闘争とはどういうことかと言えば、国の最も大まかな方針を定める綱領(成文不文両方含まれる憲法や慣習のようなもの)を如何なものにするか、あるいは具体的な政策を執り行うか否かなど、あらゆる考え方の違いを巡り、人々が口論から流血を伴う大戦争などまで様々な形で争ってきたということです。今私が使った「考え方」という言葉は実に抽象的なもので、具体例を挙げるなら「××家がこの国を治めるべきだ」「この国には共産主義体制を敷こう」「この集落の川には橋を架けるべきではないか」「全ての人に身体の自由が保障されるべきだ」「COVID-19対策のために経済を犠牲にすべきではない」など、本当に様々な事が想定されます。

そんなイデオロギーの差異に端を発して、人類はその3000年以上の歴史の中で、単なる個人の間の言い争いから、世界の二勢力による大戦争までをも起こしてきたわけです。

とは言え、その様々なものが想定されるイデオロギーの差異でさえ、大まかに見れば2つに大別できるのではないでしょうか。近世以降の人類史に限るなら、その明確な分類は可能です。その大別方法は、現代の政治にも通用する「保守」「革新」という手法が最も一般的で最適かと考えます。今更説明する必要は全く無いと思いますが、「保守」とは従来のイデオロギーに基づく制度を維持、あるいは過去のイデオロギーに基づく制度を復古させようとする集団思想、「革新」とは今主流のイデオロギーに基づく制度を変容させようという集団思想のことを指すのです。

これが、「保守」「革新」の最も基本的な定義なのですが、これについて注意しなければならないことがあります。それは、時代や国、地域によって、どのような思想が保守でどのような思想が革新なのかは異なってくるということです。例えば、現在日本の保守派である安倍晋三元首相が「日米関係を強化しよう」と言ったとします。しかし、もし安倍氏が、日米関係が最悪の太平洋戦争直前の日本で発言したら、間違いなく革新的な発言だと捉われるでしょう。今の例は非常に滑稽でしたが、時代は常に過去から将来へと否応なく移り進んでいる以上、スピードはともかくとして、最終的には革新的な思想が主流になり、保守的な思想と言われてくるようになります。「保守」「革新」の分類は非常に相対的です。絶対王政が終焉を迎えた時に現われた近代の資本主義だって、かつては左派だったのですから。

ではなぜこんな現象が起こるのでしょうか。前提として、実は、先ほど述べた「イデオロギー闘争」には、単に目に見えるような争いのみならず、裏での多数派獲得工作や自己の掲げる思想の盤石化など、目に見えない戦いも含まれるということを明かしておきます。自分の考えを広めたいとき、反対する人と直接戦う北風戦略よりも、自分たちの考え方を多くの人に受け入れやすくしてもらい、反対派を切り崩す太陽戦略の方が有効な場合がかなりあります。更にもう少し考えれば、反対派を切り崩したうえで相手に物理的な戦いを仕掛ける方が手間が掛からず、必然的に、自己の考えを頒布する場合の優先度は「太陽戦略>北風戦略」となるのです。これは人類社会の普遍的な法則と化していきます。

しかし、相手を徹底的に撃滅する北風的な戦略と比べて、太陽戦略は相手を滅ぼすというより、自己の思想を基調としつつ、相手の思想も取り入れる必要が出て来ます。そうでないと、より多くの人に受け入れてもらえないのですから。こうして、自己の思想に相手の思想の血が混じる現象が起こることで、その思想に基づいた制度はしばらくは安定します。ところが、時代が進むにつれ、技術の進歩や気候変動などで、その制度にも綻びが生じてきます。するとまた、ある思想を持つ人と、別に思想を持つ人とが対立を起こし、そして様々な形態の闘争を経験して、最終的には前の時のように勝者が現れます。しかしそれでもその勝者の下で出来た制度には少なからず敗者の血が混じっているのです。

人類は、どこの地域や国でも上のような現象を繰り返してきました。このような安定と不安定とが反復する歴史が、イデオロギー闘争の歴史なのです。そしてこういう歴史観は、弁証法的なイデオロギー闘争と呼ばれます。弁証法とは、対立と矛盾をはらむ事柄を取り合わせることにより、高い次元の結論へと導く思考法のことをいいます。つまり、この場合は歴史上、対立した思想と制度の長点と短点を洗い出し、それを元に更なる新しくて高性能で安定しうる制度を誕生させたことを、弁証法的な事が行われてきたと言っているわけです。なお、このような歴史の敗者の血が混ぜられるようなことは、弁証法では止揚と表現されます。この弁証法的イデオロギー闘争の考え方に基づけば、結局は優れたイデオロギーが必然的に闘争に勝利することになります。


資本主義対共産主義

さて、こうして人類は様々なイデオロギー闘争と制度改革のうちに文明を進歩させ、ついに近代にまで辿り着きました。近代の世界、特に先に近代化した欧米社会では、店や工場、機械などを持つ資本家と、その資本家の下でその資本をもらう代わりに働く労働者の階級にくっきりと分かれるようになり、労働者は多数派且つ力が弱いという立場に置かされました。このようにして近代化の末発生した社会の矛盾を解決するために、共産主義という、労働者側に立つ思想が発生しました。この共産主義は20世紀初頭に頭角を現し、第一次大戦後にはついにソビエト連邦という共産主義国家の誕生にまで行き着きます。しかし、当然共産主義に共感を持てない人も数多くおり、従来の保守的な「資本主義」と革新的な「共産主義」との近代イデオロギー闘争が幕を開けたのです。

ところが、その共産主義に対する反動もあってか、ドイツでは第一次大戦後、ヒトラー率いるナチ党が政権を取ることとなり、急速な全体主義化が行われ、他の資本主義国と対立することとなり、利害が一致した残りの資本主義勢力と、ソ連などの共産主義勢力は徒党を組み、第二次大戦でこれに勝利します。

そして呉越同舟が解かれた後、いよいよ資本主義対共産主義との闘い「冷戦」が始まります。しかしそのころには共産主義の親玉であったソ連では民衆に対する大規模な弾圧、それもスターリンによる大弾圧が常態化しており、思想と制度との間に深刻な矛盾をはらんだ状態でした。スターリンの死後は大弾圧は沈静するものの、依然として言論の自由など人権が保障されず、おまけに経済の停滞が招かれ、矛盾は続き、遂に20世紀の終わりにはち切れてしまったのです。

1991年のソ連の崩壊です。これによって、これまで存在した世界の覇権を持つ超大国は米国のみとなり、米国一極時代が始まったのです。20世紀初頭に始まった近代的イデオロギー闘争「資本主義対共産主義」は、形態を様々なものに変化させながらも、20世紀末に終結したのです。なお、この冷戦などを経て、資本主義勢力側は、共産主義勢力とは対照的に、人々の政治的な自由をも重んじる民主主義的な思想と制度を導入していったようです。更に、結果的に、米国などの資本主義勢力が武力で相手を滅ぼしたのではなく、前の節で紹介した「太陽戦略」のように、つまりソ連などの共産主義勢力の地に住む住民の心が共産主義から離れたことで、ソ連は滅んだという事実があります。必ずしも、こういったイデオロギー対立は血の戦いで勝敗が決着する訳ではないという大きな先例となりました。もっとも、米国などが意図してソ連は滅んだわけではないので、これに関してはソ連の「自滅」に近いのですが。

ただ、それにしてももしもこの「資本主義対共産主義」の対立で資本主義的→自由民主主義的な思想と制度が勝利して、世界の主流のイデオロギーとなったとしても、今まで説明してきたような人類の弁証法的イデオロギー闘争の法則に従えば、時代を経るにつれて勝利したはずの民主主義的イデオロギーにも綻びが生じ始め、いずれはそれにとって代わるイデオロギーが誕生して、民主主義が将来的に滅びうることが考えられるのです。

しかし、この可能性をソ連が崩壊した時に否定した人々がいました。1992年に米国の政治学者フランシス・フクヤマは『歴史の終わりと最後の人間』という書籍を出版し、その中で、「人類の歴史は弁証法的イデオロギー闘争であって、その結果さまざまなイデオロギーが生じ、20世紀には『資本主義対共産主義』の戦いに搾られ、最終的に民主主義勢力が勝利した。しかしこれ以降新たなイデオロギーがこれに取って代わることはない。なぜなら民主主義は弁証法的闘争によって練り出された人類史における最終形態的なイデオロギーだからだ。」というようなことを主張したのです。

これを、フクヤマは「歴史の終わり」と表現しました。人類は、様々な闘争を繰り返した結果、最終的に冷戦に勝利した民主主義的価値観に行き着き、これ以上制度が変革されること・新たなイデオロギー闘争が発生することは有り得ない状態、これを「(人類による、弁証法的イデオロギー闘争の)歴史の終わり」と言うのです。

さあ、この『歴史の終わりと最後の人間』が出版されてから、30年が過ぎようとしています。果たしてこの書籍でフクヤマによって述べられたことは本当だったのでしょうか。

2017年に米国でトランプが大統領に選出された後、米中の貿易摩擦は激化し、その後一度はそれが沈静化したように見えたものの、2020年になりCOVID-19パンデミックが始まると、米中は互いの政治体制を批判しあうようになり、米中対立はイデオロギー闘争であるかのような模様を見せ始めたのです。現に、大統領がバイデンに代わった後も、米中高官のアラスカ会談に見られるような舌戦が続き、米中対立が、ロシアやEU、そして日本を巻き込んだ新冷戦へと発展しつつあるように見えます。つまり、この書籍で起き得ないとされた新たなイデオロギー闘争が発生しつつある状況に今なっているということです。こうなると、この書籍で述べられている「民主主義に代わる優れたイデオロギーは存在しない」という事実も怪しくなって来ます。

ここからは、米中新冷戦と言われるイデオロギー闘争予備軍が、今後本格的に激化するのか、など、今後の人類の「歴史」を予想・検証していこうと思います。


民主主義の未来

先に結論を申し上げますと、いくら新冷戦が始まっていたとしても、民主主義にとって代わるようなイデオロギーが発生する可能性は低いと考えます。

まず、現に冷戦の勝者であった自由民主主義的イデオロギーと対抗しうる中国やロシア、北朝鮮などの権威主義的な価値観に基づく制度に関してですが、恐らくそういった権威主義的な政治体制は民主主義体制よりも遥かに不安定なものだと考えられます。こういった権威主義体制により行われる政治は、多くの場合一部少数の人々の意向のみが反映されており、排除された他の人々の不満と社会の矛盾が深まったり、そしてそれが武力による紛争・テロに結びついたりするリスクが高まります。

また、北朝鮮のように、政治に携わる人々がお互いを信頼できないような恐怖政治が敷かれていると、政治家たちは国のためよりも自分の命のために行動しますから、国策はぶれにぶれ、船は山に登ります。中国は現在米国に追いつかんばかりの堅調な経済成長を見せていますが、近年は陰りも見え始め、米国のように安定して国力を維持できる力はなく、更に国の根幹である一党独裁体制の是非を巡っても国内外から様々な圧力があり、制度的にはかなり揺れ動き得ります。他にも、トルコやハンガリー、フィリピンなどは権威主義的体制に回帰しつつありますが、政情不安は常にチラついており、安定した政治が続くかどうかは不透明です。今後は十年単位でこれらの国の政情をモニタリングしていかなければ、大きな動向はつかめないので注目です。

このように、今現在存在する非民主主義的な国の政治体制は、民主的なものより脆いのと、やはり上記のような弁証法的な歴史理論から考えても、民主主義を超越した価値観が発生する前兆が掴めないのとという理由で、民主主義より優れた政治価値観は存在し得ないと考えられます。

では結局上に挙げたような権威主義的、あるいは専制的な政治体制を敷く国は、将来的にはそれがはらむ制度の深刻な矛盾が己を滅ぼし、民主的な政治体制へと変化する、それが全ての国に起これば、全世界が民主化したことになるのですが、それは起こりうることなのでしょうか。

私はそうは考えられません。まず、民主主義は万能ではなく、様々な問題を抱えていることに注意してください。例えば、当時世界で最も民主的な憲法だと評された、第一次大戦後ドイツのヴァイマル憲法は、大統領に憲法の条文の停止を認めるという自らの条文によって、ドイツを全体主義国家へ変貌させることを許してしまいましたが、その「大統領」たるヒトラーを誕生させたのは、クーデターでも戦争でもなく、民主主義の象徴たる「選挙」というイベントにおいてでした。当時のドイツ国民の多数が、独裁を許し、ドイツを破滅に導く結果となったのです。民主主義は多数決を重んじているようですが、多数派がいつも正しいとは限らないのですから、時に誤った選択をすることもあり得る、という欠陥があるのです。

ただいずれにせよ、この欠陥は非民主的制度のそれと比べたらましな方で、ウィンストン・チャーチルの「民主制は最悪の政治形態と言うことが出来る。これまでに試みられてきた民主制以外のあらゆる政治形態を除けば、だが。」という演説に示されるように、民主主義は神ではなく人が作った制度である以上、弁証法によって導き出された最後にして最高の思想だったとしても、その欠陥への批判や反発を免れないのです。

こうした批判や反発がある以上、民主主義が世界の多数派になり、世界が民主主義により統一されそうになったとしても、どこかでそれに対する反動が発生し、その反動に民主主義が打ち勝つものの、モグラ叩きのように規模の差こそあれど次の反動が発生し、鎮圧し……と、人類は永久にその歴史を繰り返すことになるのではないでしょうか。

または、このようにも考えられます。上に示したように、現在の非民主的制度はどれも現在の民主制度より劣っているゆえに、非民主的なところから民主主義にとって代わるイデオロギーは発生しないとしましたが、民主主義から新たな民主主義が生まれるということは否定していません。

どういうことかと言うと、前述のような民主主義にもある「欠陥」の改善が試みられ、現在の民主主義を更に弁証法的に改良した、別の形態の「民主主義」が誕生することは大いに有り得るということです。例えば、民主主義の欠陥として、「多数派はいつも正しいとは限らないのに、多数決を議会の基本としている」というものがありますが、多数決制度を見直して、より効率的かつ人権が重視された過程で議論が出来る環境を整える、といった改良案もあります。

このような、現行の民主制度を改めようと試みられた「ネオ民主主義」が登場することは有り得、更に将来的には、現行の民主主義と「ネオ民主主義」がイデオロギー闘争の保革対立を引き起こすことも十分考えられます。それにしても「争い」「対立」と聞くと、あまり良いイメージが湧かないかもしれません。ただ、弁証法的歴史観から見れば、それは結果的に人類の文明を進歩させてきたわけで、人類にとってプラスな影響をもたらすのです。民主主義は、20世紀の冷戦の末、共産主義に勝利したと言われていますが、今度は民主主義という枠内で争いが発生するかもしれません。場合によっては、最終的に「ネオ民主主義」が勝利することも大いに有り得ます。そういう意味では、歴史は終わらないのです。


最後の人間

ではこの文章の最後に、フクヤマの『歴史の終わりと最後の人間』のもう一つのテーマである「最後の人間」について、少しお話していこうと思います。

「最後の人間」とは、当初哲学者ニーチェが提唱した概念を、フクヤマが独自に再解釈したものです。世界が民主主義によって統一されたとして、そこでは奴隷や差別などは存在せず、人類は個人一人ひとりが平等に扱われ、平等に愛される、そんなユートピアになるわけです。しかし、全ての人が平等であるということは、全ての人がみな同様に扱われ、そこには独自性や個性が存在しないともとれます。更に、全ての人を平等に愛するということは、全ての人を平等に愛していないとも採れます。

もしも人類のイデオロギー闘争が終結し、世界のすべてが民主主義に統一されれば、こんな世界が待っているのです。もう皆が同じ価値観を信じる訳ですから、争う必要はなくなり、誰もが歴史に残るような社会の変革を引き起こすことは出来なくなります。これ以降、「偉人」と呼ばれ、後世に語り継がれる存在はいません。このような状態を「歴史の終わり」と表現し、このような社会に生きる人は、もはや将来変わることが無い存在ですから、人類史上「最後の人間」になるわけです。

以上が、フクヤマの仮説です。彼は、歴史が終われば、このような寂しい人類の将来が待っているとしたのです。

ただ、どうも私はこの顛末には違和感を覚えざるを得ません。というのも、確かに世界が民主主義に統一された時点で、仮に本当に「歴史が終わる」としても、終わるのは政治体制をどうするかという闘争の歴史であり、他の話題である経済や文化、スポーツの歴史は半永久的に続きますよね?「政治」や「数学」には一つの真理、正しさが存在するかもしれませんが、文化やスポーツにはそんなものは存在しません。これらの分野には無限の可能性が秘められているのです。たとえ、政治体制を巡る一連の闘争の歴史が幕を閉じたとしても、こうした分野において、人類は永遠にバラエティある活動を続けることが出来るのではないでしょうか。そこに寂しい未来はありません

そもそも、政治体制を巡る一連のイデオロギー闘争が、終結することはあるのかという点に関しても、前の節で述べた通り怪しいところがあります。民主主義は、非民主主義に勝利したとしても、更にその中での闘争を経て、進化を重ねていく。そんな中で、歴史に遂に終わりが到来することは有り得ないと考えます。


人類は、21世紀以降も、民主主義的価値観を中心に、イデオロギー闘争を繰り広げます。それは、決して悪であり、愚かなものである訳ではなく、人類文明の更なる進歩をもたらすものです。イデオロギー対立に限らず、人類は、学問、文化、経済を進化させていきます。私たちの未来に、決して暗黒で空虚なものはありませんであるからこそ、私たちが未来へ向けて自分たちの子孫を作り、そして送り出すことは、何の躊躇なくすべきことなのではないでしょうか

しかし当然ながら、このようにして人類の文明を進歩させるためには、私たちやその後の世代が、前の世代が残したことを継承することが絶対条件になるでしょう。自由な環境で、先人の残した文明の進歩を学び、より高度なスタートラインに立たなければならないのです。そのために、我々は学校で勉強しなければなりません。もしもこのような継承行為を怠れば、人類の文明でさえも後退し滅亡することは有り得ます。そうすれば本当に私たちや私たちの子孫は、全ての意味において「最後に人間」になってしまいます。と言えでも、私たちはそれらを継承し、そして進化させる能力を十分すぎるほど備えています。なぜなら、我々の何代にも渡る先祖だって、これを少なくとも3000年間こなしてきたのですから。


以上の文章は、私がフランシス・フクヤマの著作である『歴史の終わりと最後の人間』に対して独自の解釈と考察を付け加えたものであると同時に、これまで未来ノートで述べてきた私の主張を更に発展させたものになります。なお、この都度、他の記事と読み比べて、私のこれまで主張してきたこととの相違点があることは否めません。もし、この文章を読んで不明瞭な点がありましたら、誤解を防ぐためにも、この記事にコメントして下されば幸いです。

最後まで読んで下さり、本当にありがとうございました。


(2022.1.15)


前回:安全保障と民主主義

次回:例えは時に害になる


1 件のコメント:

  1. すごいですね。
    「歴史は終わらない」
    その通りだと思います。

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