2022年5月5日木曜日

中国ゼロコロナ政策の限界と寡頭政治の限界【未来ノートコラムA・第15回】

中国随一の金融都市上海では、先月5日にCOVID-19の新規感染者数が1万3000人を超える高い水準となり、同日に都市全体の住民約2500万人を対象としたロックダウン(都市封鎖)を開始した。しかし、この感染者数1万人程度の数字は、諸外国の数字と比べてそこまで高いわけではない。例えば、日本は当時第7波のピークを迎えていたが、同日の全国の感染者数は4万5684人となっており、上海のそれより3倍以上多い。

しかしながら、現状、感染者数の少ない上海の方が、ロックダウンという強力な措置で防疫を図っている。この背景には、中国と諸外国とのCOVID-19政策の根本的な相違点というのがある。

まず、日本などはウィズコロナ政策といって、COVID-19の感染が拡大したとしても、感染者個人や濃厚接触者に対しては自宅待機・療養を求める一方で、住民国民全体に対する大規模な規制などの感染が起こり得るシチュエーションに対する予防的措置は採らないのが今のところの基本だ。かつては緊急事態宣言などの若干の強制力のある措置が適用されたことはあったが、昨年9月末を最後に発出されていない。

重症化リスクが低い変異株「オミクロン株」がCOVID-19の主流になってきているのも背景の一つだ。その他欧米なども感染防御のための規制を緩和しつつある。

対して中国は、ゼロコロナ政策と言って、COVID-19の拡大を徹底的に封じ込める政策を採っている。その方法と言えば、市域内のほぼすべての市民に対して強制力のある外出制限、全市民に対するPCR検査などの大胆な措置だ。このような措置は当然住民の全面的な協力が不可欠であるが、それを拒まれることなく実行出来るのが中国というものだ。中国特有の集団社会を重視するイデオロギーに基づいている。しかし、国際社会はこれを権威主義と呼んでいる……。

中国はこのゼロコロナ政策によって、COVID-19の発祥国であるにも拘らず、防疫面で大きな成功を収めた。一方で、米国をはじめとする欧米の民主主義国家も、基本的にはこのゼロコロナ政策を採り、感染の拡大を抑えようと努めたが、多くの感染者を出してしまった。そして多くの人が亡くなった。日本は強制的な措置を伴わずに一時は感染拡大をゼロコロナで抑え込んだが、それでも中国より多くの感染者数を出してしまった。

中国は自国の成功と欧米の失敗とを比較して、高らかに自国のイデオロギーの優位性を国内外に宣伝した。当時はトランプ政権から始まりバイデン政権にも受け継がれた米中の新冷戦:民主主義対権威主義の対立の真っ只中であったが、こうした政治の「結果」は、中国を始めとする権威主義国家にとっての大きな好材料となった。

しかし2020年末から2021年、そして今2022年にかけて、人類対ウイルスの戦いに少しずつ変容が現れてきた。それが、COVID-19ウイルスの変異である。

一般にウイルスというものは、感染力と毒性の強さが反比例する。感染したウイルスが致死性の高いものであれば、感染者はすぐに死んでしまうが、一方でそれは次なる感染者を生み出さないことに繋がる。あまりいい話ではないが。しかし弱毒のウイルスであれば、感染者は健康なので、生きて活発に活動する感染者が次なる感染者にウイルスを与える。こうしてウイルスは蔓延する。

最近何かと話題の『鬼滅の刃』で考えてみよう。『鬼滅の刃』に登場する鬼の主食は人間である。鬼は人間を食い殺そうとする。しかし、このとき鬼の血が一滴でも人の体内に入れば、その人は新たな鬼と化し、今度はその人が人間を食おうと動き回る。

この例えでは、人間は人間であり、鬼はウイルスである。強い鬼は人間を完全に食い殺し、新たなる鬼を生まないが、もし人間が完全に食い殺されなかったとき、それは新たな鬼を生む。『鬼滅の刃』の設定はウイルスを説明する時によく使われる話にもなっている。

ただ、一つだけ相違点がある。ウイルス目線で考えた時、強い毒で人間を殺すのと、感染者を軽症で済ませて別の人間に感染し、子孫を増やしていくのとではどちらを選ぶだろうか。当然、後者のはずだ。感染した人が死んでしまえば、ウイルスたちも死んでしまう。ウイルスが生物の細胞に感染するのは、感染細胞を利用して仲間を増やすためだ。決して宿主を殺すことではない。生物界(もっともウイルスは生物ではないが)の鉄則である。『鬼滅の刃』の鬼たちはよりたくさんの人間を食い殺すことで自分を強くするのを目的としている。大きな相違点だ。

さあ、そこまで考えた時、自然にCOVID-19ウイルスも例外ではなく、より子孫を残しやすいものへと形態が変化していく。つまり、より弱毒化=感染力が強化されていくのだ。そして究極にそれが為されれば、遂にコロナは風邪となる。

デルタ株は感染力も毒性も強かったが、昨年10月に南アフリカで現れたオミクロン株は弱毒とされている。今現在世界のコロナ市場はオミクロン株で多く尽くされているのだから、デルタ株よりも感染力が強いと考えるのが自然だろう。

COVID-19が風邪に近づいていくということは、各国政府の対応も風邪に対する対応でだんだんOKということになる。予防薬や治療薬も開発されていく。するとやはりここでゼロコロナからウィズコロナ政策への転換に舵を切れるかどうかが焦点となって来る。幸いにも、日本は初期の段階からウィズコロナという概念が提唱されてきたおかげで、結果的にはこれがうまく働いてポストコロナのスタートラインに辛うじて立つことができる位置にはある。欧米各国も感染者数が多い中で、対策緩和に舵を切る国々も少なくない。

世界のCOVID-19がオミクロン株によるものへと転換されていく中で、中国もその例外ではないはずだ。中国もその国家全体からしてみれば、ウィズコロナに舵を切り、経済を再興させた方がいい。しかし、そうすると損をする人たちが生じてくる。損が生じてくる人たちがウィズコロナに舵を切れない。ウィズコロナに舵を切るべき人が、損をすることになる。中共の現習近平指導部のことだ。

先ほども述べたように、中国は自国の防疫の成功を高く国内外に誇っていた。他の欧米民主主義諸国にはできない究極のゼロコロナ政策を自分たちは出来るんだ、自分たちのやり方なら出来るんだと。ここにおいて、ウィズコロナへの転換は、ゼロコロナの否定:その「自分たちのやり方・成功」の否定となってしまう。もしかすれば、中国共産党による一党独裁的な指導体制をも否定することになってしまうかもしれない

最近の中国がゼロコロナ政策に固執する原因はまさにこれではないだろうか。欧米とイデオロギー対立を同時に戦う中で、自分たちの大きなアドバンテージを失うことを大いに恐れているのではないか。

政治というのは、その集団にとって最善の道を選択することだ。それが政治家の役割だ。今ウイルスを蔓延させることによる人々の犠牲の方が、経済を停滞させることによる将来の人々への負担よりも大きいのならば、経済を止めるような強硬な措置を取ってでも、ウイルスを抑制すべきだ。逆に多少の犠牲を払ってでも今経済を止めると将来の負担が甚大だという場合は、敢えて規制を施さない。毎年平年はインフルエンザにより日本で1万人が死亡していると言われるが、それを理由に毎年のように都市封鎖を行うような政府があるだろうか。

そしてその二つの選択肢のどちらを選ぶかどうかを決める最善の方法が民主主義だと私は思っている。なぜそんなことが言えるかというと、これはまた説明が長くなるので、後々の記事で述べるつもりだし、そもそも前の記事でも少し触れたことは有るので、気になった人はそちらも参考にしてほしい。

ともかく、今の中国の現状を見れば、ウィズコロナ政策を採った方が明らかに賢明な政策となるはずだ。現在の北京の新規感染者数は市民600万人に対して50人前後だが、それでも地下鉄を封鎖する措置を取って在宅勤務を推奨している。中共の指導部の人たちは政策を転換することが出来ないらしい。さんざん自分たちのゼロコロナという防疫政策を自国の体制の優位性を示すのに利用していたのに、今度はそれが仇となって自国の体制の脆さを自ら示しているという始末だ。

COVID-19の蔓延により、自由と民主主義は一時的に危機に陥った。集団が立ち向かうべき共通の敵が生じた時、個々の人々の自由は制限され、集団の利益が優先される風潮が高まってしまうのではないかと。東京大学の政治学者宇野重規氏は、自身の2020年の著書で、21世紀の民主主義が4つの因子による脅威に同時に直面しているとした。その因子の内の1つが「コロナ禍」だった。しかし、その中で次のようにも述べていた。

……短期的に見れば、独裁的手法が効果を持つことは十分にありえます。しかし、政治システム全体が長期的に発展するためには、民主主義の方がはるかに有効です。

その理由の第一は、民主主義が……人々の当事者意識を高め、そのエネルギーを引き出すということです。独裁体制の下では、人々が受動的になり、すべてを権力者に依存することになります。そのような仕組みが長期的に持続可能とは思われません。第二に、民主主義は多様性を許容する政治システムです。その前提にあるのは、政治や社会の問題についてつねに唯一の答えがあるわけではなく、多様なアイディアに基づく試行錯誤が不可欠であるという考えです。民主主義はしばしば誤った決定を下しますが、それを自己修正し、状況を立て直す能力をもつのも民主主義です。*1

これは、COVID-19に対する中国の勝利が「短期的なものである」ということを示しているようにも見える。そして現にそれは「短期的なもの」になりつつある。


結局私がこの記事でいいたいのは二つ。一つは、COVID-19ウイルスの変異により、各国政府の防疫政策がゼロコロナからウィズコロナ政策に転換されつつあること。そしてもう一つは、そのゼロコロナ政策の限界が、中国においては、中国特有の寡頭政治(≒独裁政治)の限界をも示しているということ。つまり、宇野氏が前述の著書で述べた一つの危機に民主主義がはや打ち勝とうとしているのではないかと、そういう希望的観測を私は見出しているのだ。

今私に出来るのは、COVID-19の収束ないし弱毒化、そして民主主義の勝利をひたすら祈る事のみである。

(2022.5.5)


前回:ロッテ佐々木朗投手と白井球審との件について

次回:安倍元首相殺害と参院選の結果についての考察


引用

(*1)宇野重規『民主主義とは何か』講談社,2020,p258-259


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