2022年8月28日日曜日

中国と日本の政治問題をめぐる遠藤誉氏の記事の書き方への疑問【未来ノートコラムB・第12回】

SNSに書こうと思ったが、長くなりそうなのでウェブログの方に記すことにした。

Yahoo!ニュース個人(遠藤誉):旧統一教会が牛耳る「日本の選挙の民主」と「中国の民主」_中国「わが国は民主的だ」世界ランキングで1位

まずはこの記事を読んでほしい。

満洲で生まれ、中国問題グローバル研究所所長、筑波大学名誉教授を務め、中国や世界情勢を巡る国際政治の諸問題を研究する遠藤誉氏は、この記事において、日本の国内の政治問題と中国の政治問題をグローバルな調査を元にして、最終的に旧統一教会(現・世界平和統一家庭連合、以下通称「統一教会」)と関わりが深い状態にあった日本の政治や選挙システムを批判している。

だが私は、いくつかの観点に関連し、遠藤氏の書いたこの記事の中のロジックと結論に疑問を感じた。そのためその細部についてここで述べる。


1つ目の疑問は、今までの日本政治と統一教会との関連性についてだ。遠藤氏は同記事冒頭で、

日本では統一教会と自民党議員などとの長きにわたる深い癒着が次々と暴かれ、まるで日本の政治が統一教会によって動かされていたような不気味さが漂っている。

として、「日本の政治や選挙制度が統一教会によって一方的に牛耳られている」という趣旨の前提で論考を進めている。 そして、その根拠として、第4節目の途中で、

特に岸元総理とも懇意にしていた統一教会初代会長・久保木修己氏の遺稿集『美しい国日本の使命』が2004年に出版され、2006年に安倍晋三元総理が『美しい国へ』を出版したことのアナロジーや、自民党が提案している憲法改正案が統一教会の教義に酷似していることなどを考えると、日本の政治の骨格が統一教会によって形成されているのではないかという不気味さを覚える。

としている。だが、統一教会が自民党を恣に動かしているということは、従来の自民党や故安倍氏の政治的イデオロギー・国家観が、統一教会の教義に上書きされているということになるが、果たしてどうだろうか。

私は、統一教会と自民党の関係性について、何か統一教会という宗教団体からの一方的な支配・操作というかたちと取っていたとは考えない。与党自民党議員から自分たちの団体の存続のお墨付きを得る代わりに、集票などの選挙支援をするという、2つの組織の「ウィンウィン」的な関係の中に、統一教会が組み込まれていたと考えたい。もちろん、これはこれで当然悪質であり、憂うべき現状だ。

米ソ冷戦の時代に、反共を訴える自民党と、北朝鮮という共産主義国の脅威があった隣国韓国で生まれた統一教会とは接近し、そして日本の保守的な政治家と統一教会は互いに政治面で連携しあうようになった。その統一教会側の窓口として作られたのが、「国際勝共連合」だ。その関係は岸信介首相(当時)の時に始まり、そしてその孫の代まで、冷戦が終わってもなお上記のかたちで継続していた。統一教会は宗教団体でもあるが、同時に明確に政治的目標を掲げる政治団体でもあった。保守・反共的な自民党と統一教会との連携はこのように必然的かつ彼らにとっては必要なものであり、政教分離の問題としてや、政治介入としての問題として捉えるのは、やや難があると私は感じる。

では選挙介入としての問題ではどうか。一般に日本の国会議員にとって、選挙運動時の人員の動員は頭を悩ませる問題である。そのため、人員動員力のある政治的に友好的な組織と、政治家が連携して、選挙戦を戦うという集票システムが、日本政治社会全体のセオリーとなっていた。具体的には、自民党は今回の統一教会や日本会議、公明党は創価学会、他のリベラル政党は労働組合が、それぞれ選挙のお手伝いをしていた。

だが、その選挙における集票に関わることによって、日本のあるべき民主主義を、何か民主主義でないものに変えてしまうと考えるのは、さすがに論理の飛躍ではないか。確かに今の政治が実際の民意に比例しているとはなかなか現状考えづらい。政治家側は、選挙の際知名度向上のために、街頭演説をしたり、選挙ポスターを貼ったりするときに、人数の力、つまり集票組織の力を借りる。しかし一方で、いかに集票組織の力を借りたからと言って、それがどこの党かが勝ったかなどという選挙結果に影響するだろうか。統一教会という名の「怪しいカルト宗教」が選挙という政治のための神聖な儀式に関わってきたという今回の事実は、多くの国民に不快感や気持ち悪さを感じさせた。でもそれは、根本的に選挙の結果を覆すような結果を招いたり、今の政治を民意から離れたものにしたりする原因にはなり得ない

近年国政選挙で一つの政治勢力の勝利が続いてきたり、現状の政治に民意が反映されていないように感じたりする、その全ての政治の「負」の面の原因を、統一教会が関わってきたからだと結論付けるのは、思考停止の領域に入る。今回の統一教会の問題で、改善し、刷新すべき現状があるのは、当然の当然のことだ。でもやはり、それを実現させるためには、冷静な現状の分析と、問題となっている組織構造の整理を要する。それがこの記事では為されていないと感じた。遠藤氏は、

日本は「普通選挙」をしている国として、「民主主義国家」の範疇に入っているわけだが、選挙そのものが統一教会という集票マシーンで成り立っているとすれば、国民がどんなに政治に不満を抱いたとしても、「選挙をすればリセットされる」という「民意の消滅」が選挙によって具現化される。

選挙は「民意の表現」ではなく「民意の消滅とリセット」へと導くのが「日本の選挙と民主」だ。

と主張しているが、統一教会という一政党の集票マシーンだけが、政治と選挙結果のすべてを動かしている、民意を全てリセットしていると考えるのは、統一教会の問題を誇張しているように思える。また、先の参院選の結果だったり、与党の勝利が続いていたりだというのは、またこれは別の原因があるはずではないか。

そしてそれが日本が果たして民主的かどうかという事実すらに触れる議論に持っていくのも分からない。日本の選挙制度の現状とその根本的な部分まで疑義を持たせる必要があったのだろうか。


これが2つ目の疑問に繋がる。遠藤氏は、記事の前半部分で、中国と日本となどにおける自国が民主的かどうかをめぐる住人の認識に対する調査(民主主義認識指数=DPI)を用いて、日中を比較している。そして驚くべきことに、DPIによれば、日本の自国を民主的と感じる層の割合が53%、米国は49%とと半分前後なのに対し、中国は83%と異様に高い数値を出す調査結果となっているのだ。しかも中国の値は年々増加しているという。

この値について、遠藤氏は以下のように、

最も大きかったのは、2021年1月6日、大統領選挙による不正を訴えたトランプ支持者が、アメリカの議事堂に乱入した事件で、それまでまだ中国の若者の間にいくらか残っていたアメリカへの憧れ、「アメリカは民主的な国家だ」と信じていた気持ちを、一気に挫(くじ)かせてしまった。どれだけ多くの中国人民がアメリカの「民主」に幻滅し、「アメリカの民主など、少しも良くない」と痛感したかしれない。

 2022年のデータは、2021年の世相を反映しているので、アメリカ民主への幻滅と、バイデン政権になってから陰湿になってきた対中包囲網に対する反感も手伝い、2022年のデータは、「83%」と、大きく跳ね上がったものと解釈できる。

と、この値を中国国民が米国の民主主義に失望した反動だと解釈している。そうして中国国民は自国を民主的だと認識するようになったわけだ。

これを用いて、遠藤氏はその後の論考で、中国は選挙の無い一党独裁体制のはずなのに政府が大衆の民意に敏感なのに対し、日本は民主主義国家のはずなのに、統一教会が選挙で政治を支配しており、民意をくみ取れる体制が出来ていないという事実を皮肉しているのだ。

だが私は、中国と比べることによる日本政治への風刺・批判に強烈な違和感を覚えた。まず前の節で示したように、「統一教会が日本の選挙を支配している」という趣旨の表現は、誇張されたものであり、日本の民主主義的な制度そのものを貶めていると言ってもよい。そして、「中国におけるDPIが高い」ということが「中国では民意に敏感な政治が行われている」と解釈できるはずもないのである。

中国では、たびたびインターネット上で民衆が怒ることがある。これに対応するため、中国政府はなんとか民衆を満足させるために行動する。これは確かに、民衆が当局を動かしたとも捉えられる。だが、ほとんどの例で中国当局の対応は誠実なものではない。それこそ本当に自分自身のための行動でしかないのは自明だ。中国当局は、中国国内の教育や報道を支配している。報道・言論の不自由や不公正な教育を前に、「民主主義」など意味を持たない

それに加え、昨年1月の米国の議事堂襲撃事件が、中国社会において、一様に「(米国的な)民主主義への失望」という感想に変換されているのも非常に不気味だ。中国国内の報道が、これを香港のデモと比較して米国の対中政策が矛盾していると結論する論調一色に染まっていることからも、中国国内で当局主導の「民主主義の再定義」が進んでおり、当局が米国とのイデオロギー闘争を打ち破るために、元来の欧米的なリベラル民主主義の価値観を、より強権的なものへと書き換えようとしている意図が見え隠れする

API(江藤名保子):中国の民主主義と人権の「認知戦」に要警戒なワケ

「民主主義の再定義」が今後日本や欧米など従来の自由主義諸国、そして世界全体にどのような影響を及ぼすかは、今年3月に掲載された上記の経済記事を参照してほしいが、いずれにせよ、中国政府には、「民主主義」や自然的人権を期待することは出来ない。それを見誤れば、我々の前途には目を覆いたくなるような展開が待っているのだ。

まだ我々の政府たちの方が、問題は多くあれど、世界的な観点から見れば、より安全で自由かつ繁栄した社会を描くことが出来る。私はそう信じてきた。他国の失敗からも学ぶことが多くある。個人が己の智慧を最大限に捻りだして、政治を語り、作れる世界に住んでいたい。最後にかの有名なウィンストン・チャーチルの演説語句を引用して記事を締めよう。

これまでも多くの政治体制が試みられてきたし、またこれからも過ちと悲哀にみちたこの世界中で試みられていくだろう。民主主義が完全で賢明であると見せかけることは誰にも出来ない。実際のところ、民主主義は最悪の政治形態と言うことが出来る。これまでに試みられてきた民主主義以外のあらゆる政治形態を除けば、だが。―――ウィンストン・チャーチル 英国下院演説、1947.11.11

(2022.8.28)


前回:黄金の三年間と自民党の選択

次回:未定


3 件のコメント:

  1. さすがの切れ味ですね。我那覇さんも、統一教会系のメディアで発言しただけで、信者にされてましたしね。遠藤誉氏は、個人的には嫌いではないですが、この論文は本当にその通りだな、と思いました。

    返信削除
    返信
    1. コメントありがとうございます。
      我那覇氏については存じ上げないので、コメントは差し控えさせていただきますが、一つ言えることとしては、このように短絡的に考え出した人々の利害構図を、社会問題に投影することは、事を過大評価あるいは過小評価してしまうリスクがあるということです。現実問題の本質は、我々が普段マスメディアで触れるもの以上に複雑ですから、より専門的で造詣の深い人がそれぞれ分析すべきです。残念ながら、遠藤氏はこの手の国内問題にはあまり見識が深いとは言い難いように私には見えます。

      削除


  2. 学者さんも忙しいですからね。この文は確かに悪文だと思いますが、中国についての本とかは、私は遠藤氏や福島香織氏などは時々勉強させていただいています。全部を鵜呑みにするのではなく、時々参考になるものがあれば十分、ぐらいな気持ちで読むのがいいのでしょうね

    返信削除

コメントを投稿される際は、未来ノートの「運営方針」に示してある投稿ルールを確認していただいて、それを遵守されるようお願いいたします。投稿内容によっては、管理人が削除する場合があります。

選抜記事

多数決文化との決別【未来ノートコラムA・第12回】

多数派がいつも正しいとは限らない、それはいつだって  小学校の算数の授業で、アナログ時計は一日に何回長針が短針を追い越す(=重なる)かという問題が出されたという。選択肢は、21回、22回、23回、24回、25回の5つであった。 当然ながら、答えは22回である。算数的なテクニックを...

多読記事