2022年9月25日日曜日

リベラル民主主義とは何のためにあるのか【未来ノートコラムA・第16回】

結論から先に言えば、それは人間社会が人民の意志によって暴走しないための、防波堤である。

リベラル民主主義は、単純な通常の「民主主義」が国家の政治体制の言い方として使われるのに対し、民主主義国家内で、より「自由」「人権」を重視する政策に関連して使われることが多い。だから、反独裁政治、反共産主義というよりは、反人権侵害的なイデオロギー・政策を掲げるものが見られる。当然程度の差はあれ、「人権侵害」というのは民主主義国家でも起こりうることだ。だからリベラル民主主義は民主国家内でも積極的に活動する。

リベラル民主主義を掲げる者は、近年では、先進国において、女性の人権、男女同権、LGBTの人権などを中心とした性別に関する政策、あるいは海外では、人種、移民など、いずれにせよ「弱者」に焦点を当てた政策を議論の主体としている場合が顕著だ。「弱者」とはすなわち通常よりも人権が制限されている人々のことである。

そして彼らは、20世紀後半から21世紀前半にかけて、自分たちの基本的な政策・社会通念を先進諸国の民主主義政治社会のなかに浸透させることに成功した。それは主に、「××をしてはいけない」といったような、個々人が社会を生きていく中での「タブー」としてのものが主であった。これはのちのち「ポリティカル・コレクトネス」とも称されるようになる。

しかしいつまでもこれが社会全体に受け入れられる状態が続くことは無かった。インターネットの普及は、より民主主義の成員である個人が「自由に」自分の意見すなわち政策を公開・発表・議論しやすくなる環境をもたらした。「自由に」とは「匿名に」ということだ。科学の発展は今までも民主主義の歴史に深く影響を与えてきただろうが、ここでも歴史の進む舵を変えていく役割を果たした。元来潜在的で少数と思われていたこれに反対する意見・政策が、拡散・共有され、存在感を増していった。

主に「ポリティカル・コレクトネス」と呼ばれるような、リベラル民主主義的価値観に、民主国家の中で反感を持ち反旗を翻してきたのは、それが浸透する前に社会の主導権を持っていた、保守的、特に民族・国家主義的な勢力である。恐らく少数派・社会的弱者の得る社会的利益の増加は、元来の社会の主導者の得る利益を相対的に減少させたのだろうが、彼らはそれを大いに問題視した。もちろん、従来の人々の利益の減少というのは、錯覚ではなく、彼らが社会全体の情勢に不満を抱くようになったのは、必然的な流れとして捉えるべきではないか。

21世紀の米国において、リベラル民主主義を標榜してきた勢力の執権の時が長くなれば、より彼らの価値観は至上のものとして意識させられ、そしていつの日か過剰な「言葉狩り」「逆差別」といったかたちで、今度は社会の負の側面として告発されるようになった。その告発はインターネット・SNSといったITメディアを通じて行われたことは言うまでもない。

そして、そうしたリベラル民主主義が遺した政策・社会通念に徹底的に再考を迫ったのは、2016年の米国のトランプ大統領の誕生であった。トランプは、世界最大の国家の統領でありながら、挑戦者でもあった。それは良い意味でも悪い意味でもそう言える。ただその後米国社会に現れたのは、保革文化戦争とも呼称される「分断」であった。リベラル民主主義的勢力と保守的勢力の対立は、こうした流れで地上に亀裂として表面化した。


どうすればこれを解消できる?どうすれば、分断を少しでも和らげ、一辺倒な政策が行われることを阻止できるか?

リベラル民主主義を標榜する者がいるのであれば、彼らは「原点」に立ち返ることが必要なのだと。リベラル民主主義は従来の「民主主義」をどのように定義したか。そう、リベラル民主主義は自由を重視する。言論の自由に重要な価値を見出す。つまり民主主義を他者がどのような言論で定義しようとも、それを“許す”べきだとするのが、民主主義である。言い換えれば、「民主主義とは、他者に価値観・イデオロギーを強要しない」ものであると。これは、民主主義に対する単純な「定義」ではない。より上位に位置する「メタ的な定義」なのだ。これらは全く別物である。

民主主義の原点はそこにある。誰が何を言おうと、それを“許す”こと。どんなに自分にとって異端な言論が存在しても、それが上記の民主主義のメタ的な定義を破壊しない限り、相手言論人の存在を尊重しなければならないこと。

それを元に考えれば、リベラル民主主義は常に「最低限」の民主主義の定義=民主社会的正義が守られることに重きをおくべきで、間違っても前のめりして、具体的に「××の人権はこうあるべきだ」「××とは言ってはいけない」などと定義をして、それを他者に強制してはならない。一方で、人々は、そうではない、より高次な次元に位置する「民主主義のメタ的な定義=民主主義の根本理念」は、大いに尊重して、言論を営まなければならない。それが為されないのであれば、それは「他人に価値観を強制する」すなわち「言論の自由に支障を与える」ことであり、さらに深まれば、いよいよ自由と人権はもろとも破壊されることとなる。


よく国家政治体制の分類として、「民主主義」は「資本主義」「共産主義」などと並ばれて論ぜられることがある。だがこれは、民主主義に「他者に価値観を強制しないという価値観」というメタ的な定義がされている場合、誤りとなる。

ごたごた抽象概念を並べて説明しても埒が明かないので、ここは具体的なイメージを例に出して説明しよう。国家の基本的政治体制理念を、ケーキに例えるとする。資本主義は、柔らかな生クリームに、イチゴとモモをトッピングしたショートケーキであるとしよう。一方の共産主義は、チョコレートケーキだ。

そう喩えた場合、私は民主主義が何ケーキであるかと言うと、それは何もトッピングされていないスポンジの生地である。つまり何をケーキに載せようとも、それは自由なのである。ショートケーキも、チョコレートケーキも、一度作ってしまったら別のものに作り替えるのは難しい。というか考えもしない。だが、民主主義はいくらでも自由な言論(=トッピング)によって様々なものに変えられる。「民主主義=××」「○○=××」と始めから定義をせず、何事も強制されず、ただ唯一原点にあるのは、『何事も強制されない』というメタ的な定義のみなのである。


だから、リベラル民主主義者を称しながら、「××は○○だと始めから決まっている」と具体的に述べている者がいたら、それは偽善的なものと言わざるを得ないだろう。

(2022.9.25)


関連記事


0 件のコメント:

コメントを投稿

コメントを投稿される際は、未来ノートの「運営方針」に示してある投稿ルールを確認していただいて、それを遵守されるようお願いいたします。投稿内容によっては、管理人が削除する場合があります。

選抜記事

多数決文化との決別【未来ノートコラムA・第12回】

多数派がいつも正しいとは限らない、それはいつだって  小学校の算数の授業で、アナログ時計は一日に何回長針が短針を追い越す(=重なる)かという問題が出されたという。選択肢は、21回、22回、23回、24回、25回の5つであった。 当然ながら、答えは22回である。算数的なテクニックを...

多読記事