2022年10月7日金曜日

【持続的平和に資する 第2回】民主的平和論とその理念

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書いた記事がだいぶ前のものになってしまったが、上記リンクの「第1回 武器と他傷心理」で私は、真に世界平和を追求するのであれば、軍縮や兵器の削減など表面的な非戦化ではなく、戦争という忌まわしいものを生み出す根本的な要因、すなわち戦争因子を除去する政策を世界的に展開する必要があるとした。これによってもたらされるのが持続的な平和である。

そして更に、近代における世界平和を最も脅かす大国同士の戦争の起因は、政治的イデオロギーの差異にあるとした。それの解消が戦争因子の除去であり、解消とは「民主化」であるとした。

なぜ、世界の国々全体の民主化が、政治的イデオロギーの差異の解消、そして持続的平和に繋がるのだろうか。逆になぜ民主化でなければ、それを達成することが出来ないのだろうか。

まず民主主義という言葉をきちんと定義しよう。ここでいう「民主主義」は、私はかなり広い意味で使っている。現代の世界の先進民主主義諸国の政治制度が安定するにつれ、そもそもそれらの国々の住人は自国の政治制度というものに関心を持たなくなっているため、多くの人が誤解しているが、民主主義と選挙制度は不可分のものであるとは限らない。民主主義の字義をそのまま分解するなら、「人民」が「主体」となって政治を執り行う制度となるが、必ずしも多数派の意見を取り入れることにより進めるシステムであるわけではない。これはむしろ後付けされたものなのだ。

その証拠として、まあこちらは「くじ引き民主主義」というかたちで最近話題になってきてはいるが、例えば古代ギリシアのポリスの民主政治:会議によってそのポリスの方針を決めた政治では、会議に参加する人はみな抽選によって選ばれた。近年の学説では、多数派の意見を取り入れる趣旨の選挙制度は、近代化以後にようやく西欧を中心に導入されるようになったとするのが主流である。

では何が、民主主義の発祥の地と言われる古代ギリシアから人類が用意してきた民主政治という概念の中で共通している要素なのかと言えば、それは複数の人々で議論を営むという形態だ。議会の存在、その構成員が如何なるものであろうとも、これは世界各国で歴史を経て様々な形で現れてきており、現在の先進諸国の民主政治の原型になっている。

そしてその議論を営むという形態を維持するために、民主主義に必要になって来る要素がある。まず議論する人間の存在だ。それはいつだって複数性が担保されていけないと言われるが、当然のことである。一人ないし少数の人間に一存することは、考え方や利害の偏りが生じる恐れがある。より人が多い方が、合理的な判断で、民主政治を営む集合体の方針を決めることが出来る。もちろん人が多くなればなるほど考えや利害もバラバラに散っていき、集合体としての団結自体が危ぶまれるため、代表制を採用して、より良い選択肢を拾っていこうとするのが近代以降の話である。

さらにもう一つあるとすれば、それは議論する人間たちの身分の保障だ。言い換えるのなら、人権保障である。歴史上、政敵を謀殺するという出来事は星の数ほど存在するが、それは政治上異なる考えを持つ者の口を封じることにより、自分の主張を政治の壇上で優位にするためのものだが、集合体全体にとってより良い選択肢を採っていく中でのこのような行為はマイナスなのだ。真に民主主義を営むならば、そのような行為は排除せねばならない。これをもう少し近代的な理論に当てはめると、これは言論・結社の自由など自然権的人権が保障される環境、これが近代の民主主義の必須要素になる。これこそ真に民主主義にとって不可分なものになるのだ。

以上に説明したのが、現代の民主主義に繋がる、民主政治にとって必要な最低限の条件・理念だ。逆に、先ほど挙げたような「選挙」や、「大統領制」「議院内閣制」「三権分立」といった概念は、最近になって作られた、民主主義への後付け・補足・加工品に過ぎない。ただ「複数性が担保され、他者の価値観が尊重され、真面目な議論によって営まれる」のが民主主義の定義だと私は考えている。もっとも、今私が示した「民主主義の定義」でさえ、別の言葉で表現される、民主主義の議論そのものによって本来なら定められるべきだ。そして民主主義を通した議論によって、極端な例を出せば、国家を資本主義に、社会主義に、ジャマヒリーヤに、いかなる体制にしようとも、これはそれであると同時に民主主義によって生み出すことが出来るというわけだ。民主主義は、今まで人類により営まれてきた他のイデオロギーを超越するメタ的な政治イデオロギーなのだ。


そんなより高次に位置するメタ的で特殊な概念だからこそ、世界を合理的支配で統一できるので、数多燻る世界の政治的イデオロギーの差異の解消のための唯一の手段として私が提示したのが、民主化なのだ。これは、「民主的平和論」として既に政治哲学の論壇に長い間上げられている。

民主的平和論とは簡単に言えば、民主国家は他の民主国家との戦争を避ける傾向があるという学説である。これは古くイマヌエル・カントの時代から提唱されてきているという。これを辿れば、全球的な民主化を持続的に進めれば、持続的平和が全世界に渡ってもたらされるという究極の理論となる。その実現こそが、持続的平和を目指すうえで最も完全な手段である。

しかしながら、このような民主的平和論に先立って、世界を一つのイデオロギーで統一しようとした試みは、過去の人類史に存在する。それがイスラムと共産主義とである。

イスラムは、中東地域に同じく起源を発する、ユダヤ教とキリスト教と同じ神を信仰する宗教だが、アラブ人であった預言者ムハンマドが大天使ガブリエルから神の啓示を受けて始まったとされる。イスラムは預言者として彼以外にも、ノア、アブラハム、イエスなども当然認めているが、ムハンマドはその中の最後の預言者とされた。従ってイスラムの教義は人類にとって最高の教義であり、最終的にはこれを以て世界を統一されるのがイスラムの理想とされた。

ただし必ずしもイスラムは好戦的な教義を持っているわけではなかった。イスラムは、イスラムが中心となって信仰されている地域を「イスラム世界」(ダール・アル=イスラム)、それが確立されていない地域を「戦争の世界」(ダール・アル=ハブル)と定義している。ただこれを積極的に取り込んでいく、とりわけジハード(~~聖戦)をもって異教徒を討伐すると思われがちだが、クルアーンでは定義と当時に「侵略者を愛さない」とされており、イスラムが侵略的であってはならないとされていて、異教徒世界と和平を結ぶことが許されており、そうした場合はその相手の地域は「和平の世界」と定義されるそうだ。

一方、マルクスは将来的に世界規模で労働者階級による支配:共産主義革命の実現と資本主義の廃止を必然的なものとして唱え、ロシアでそれを実現させたレーニンも、ロシア革命はその一環であるとした。しかしレーニンの死後ソビエト連邦の後継者となったスターリンは、ドイツ革命の社会主義化に失敗した後であるということもあって、ソ連を一国社会主義論に塗り替えていき、その後時代を経て冷戦の中でソ連の外交政策は「平和共存」へと転換していった。

というのが、過去に自分たちの画期的なイデオロギーで、世界を統一しようとした試みの過程と結果である。いずれにせよ、時が経るにつれて、それぞれの勢力はその勢力内での分裂を経験した後、世界的に拡大する勢いを失い、最終的には他のイデオロギー勢力と「共存」というかたちを採って、自らの勢力範囲の維持を課題の中心とするようになってしまった。また、イスラムも共産主義もいずれもそれが提唱された地域ゆえの教義・価値観が多分に含まれていたようにみえる。当時の現代より遥かに狭い世界観がそれを後押ししているのだろうが、これも世界的な拡大を頓挫させる大きな要因にもなった。


ここでまたこの話題とは距離を置いて、再び民主的平和論について説明していこう。なぜ民主国家は他の民主国家との戦争を避けることが出来るのか。それを言う前に一つ注意していただきたいのは、民主国家が必ずしも非好戦的であるとは言っていないということだ。それと混同しないようにしていただきたい。太平洋戦争やイラク戦争を見れば当然のことだとは思うが。

さあ、民主国家同士が互いに戦争を避ける理由として、まず同一の政治的イデオロギーを掲げている国同士はそもそも軍事的対立を起こすことは少ないのが最も言われることだろう。ただそれはそのイデオロギーが「民主主義」でなくても通常は成り立つ。なら持続的平和を目指すなら、必ずしも世界全球的な民主化をする必要はないのではないか、紙面上で考えるとそういう反論も予想される。

私がそうは言わないということは、逆に民主主義にしかできない特長があるということになる。そうなのだ。民主国家には、相手国との外交政策も含めたあらゆる政治問題に関して、理性的な議論を経たうえで国の一つの方針を決定できる環境が整っている。もしその国の政治に携わる人が民主主義の考え方の枠組みに基づき、理性的に想像力を働かせるのであれば、甚大な被害と禍根を生じさせる戦争という行為の無謀さにすぐに気づくことができる。また政治家にそのような倫理観が無くても、自由な言論を保障され、いつでも政治に関わることができる多数の国民が、それを食い止めることが可能となる。

この、「相手国に戦争を挑む大義が生じ得ない」「自国内の政治の場で理性的に議論ができる」という2つの要素は、民主的平和論を成立させる主要な証左となる。なお、この「未来ノート」においては、今年4月の「純粋な正しさへの道」という記事で、民主的平和論については議論済みなので、その文章の一部をここに再掲する。

……民主国家同士は戦争をしないのはなぜか。

まず単純に、民主国家同士は掲げている国家のイデオロギーが同一であるため、近代の戦争や軍事的対立に見られるようなイデオロギーの差異による対立というある種の戦争発動条件が存在しない。相手国のイデオロギーは、場合によっては自国の政治体制より優れており、それが自国に流入すれば国家の根幹が揺らいでしまう恐れがある。しかし民主国家同士の場合、そもそも相手国が自国の体制に脅威を及ぼすようなことがないため、戦争を仕掛ける理由がないのだ。

それに、民主国家では、国家の中で、理性的に政治問題に関して議論をすることが出来る環境がある。それは、国民主権の原理と報道・言論の自由によって主に保障されているものだ。これにより、もしある民主国家の指導者が他の国家、特に民主国家に対して戦争を仕掛けたとしても、他の人々を殺傷することに抵抗感を感じさせる倫理感を持つ理性的な国民により、それを食い止めることが可能になる。

他にも、互いの国家同士の情報が常にオープンな状態であることによる互いに対する不信感の低下、対外交渉能力の向上などが、民主国家であることで戦争を抑止できる原因になったりすると言われている。

ということなのだ。

ではこれをどう世界的に普及させていくか。その問題に関しては次回の記事で詳しく論じていきたいと思う。

(2022.10.7)


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