皆さんはポリティカル・コレクトネスという言葉を知っていますか?
ポリティカル・コレクトネスは「政治的妥当性」「政治的適正」「政治的正確性」「ポリコレ」「PC」とも呼ばれ、社会で生活を営んでいる様々な立場の人間にも不快感を感じさせず受け入れられるような言語使用・政策・文化をさします。現在は、それらを実現させようと米国のリベラル派、すなわち左派が行動していますが、この「ポリコレ」の言葉には、右派からの侮蔑的意味合いもあります。
構図的に簡単に説明すれば、米国の左派は、基本的に人種や宗教、文化に寛容な立場の人々が多いので、このポリコレを推進しようとし、一方で右派は、米国の伝統的価値観や、受け継がれてきた宗教(キリスト教、まれにユダヤ教)を守ろうとする立場なので、言語表現などの変革が行われるポリコレに不快感を抱いている人が多くいます。そしてこのポリコレを巡る概念は、米国から世界に広がって様々な議論を巻き起こしているのです。
今回は、このポリコレについて探っていきたいと思います。
1.言葉の変革
※この章では米国ではなく日本の話題を中心に扱います。
ポリコレの考えのもと、今までの社会で使われてきた様々な用語を、実は社会の少数派(マイノリティ)が不快感を感じる言葉ではないのかと考えて見直していきました。
ここに以下の例を挙げます。
助産婦→助産師
スチュワーデス、スチュワード→客室乗務員
障害者→障がい者、障碍者
痴呆症→認知症
癩病→ハンセン病
肌色→薄橙、ペールオレンジ
土人→先住民
インディアン→米国先住民
このように、以上に示した例は、赤色は性別的観点(男性中心からの脱却)による、橙色は保健的観点(健常者中心からの脱却)による、青色は文化人種的観点(多数派中心からの脱却)による言葉表現の見直しと変革、といったように分類できます。
そして、変更前の言葉を見ると、確かに今からでも違和感を感じる人もいるのではないでしょうか。これらの変更前の言葉を聞いた当事者たちの気持ちは想像できるでしょうか?
それはともかく、ポリコレは、社会的常識を変革、特に言語使用を変革しようという動きなのです。
2.人々の不満、そしてトランプ大統領の誕生、ポリコレの敗北
しかし、急速な言葉仕様の変更は、変更前の言葉を使ってはいけないというムードを作り上げました。そして、一定の割合の人々、特に保守派の人々は、自分たちの言葉を使用する自由が無言の圧にさらされていると感じるようになってきたのです。
そして、ポリコレは米国では、左派たちによって進められてきた動きだったので、保守派は彼らを批判するようになったのです。これが現在までも続く「米国文化戦争」による分断につながる一因となるのです。
そんな中、2016年に当時の大統領オバマの後任を選ぶ大統領選挙が米国で行われました。現与党であった左派民主党はクリントン、そして野党であった右派共和党はトランプをそれぞれ候補に出してきました。そのうちトランプの方はかなりの異色の候補者だったことはよく知られています。
トランプはメキシコからの不法移民問題の解決のために、国境沿いに壁を建設するなどと公約に掲げ、一方でイスラム教徒に対する入国禁止を実行するなど、過激な言動を繰り返しました。
「過激な」という言い回しは、ポリコレを信じる人々からの目線で言った言い方です。トランプはこのような言動をしたのにもかかわらず、社会的に非難されるどころか、大勢の支持を集めたのでした。理由は簡単です。米国におけるトランプの支持者は、左派が推進してきたポリコレに自分たちの自由が抑圧されていると感じ、窮屈や疲れに対して我慢の限界に達した人々だったからです。彼らはトランプを、ポリコレの抑圧に負けずにそれを打破する者だと認識したのです。
そして、トランプは大方の予想を覆して見事選挙に勝利し、大統領に就任したのでした。この勝利は、世界を驚かせただけでなく、ポリコレに激震を与えました。一般に、トランプの勝利はポリコレの敗北と言われているのです。
3.ポリコレの真価、自由の真義
でも、ここでポリコレの価値を再確認してみようと思います。
ポリコレは、今まで多数派や力のある者によって作られてきた言語や価値観を、少数派にも当てはめられるように変えようという動きなのです。ここからは僕の主張が混じりますが、注意しないといけないのは、ポリコレが必ずしも多数派を軽んじているわけではないということです。あくまで、ポリコレの実態はともかく、基本的な考えは、全ての人に平等ある権利を恵むという理想を掲げるものなのです。
そして、ポリコレが人々の自由を抑圧するというのも、よく考えてみれば不思議な話です。だってポリコレが無い世界では、先ほど挙げた「インディアン」「痴呆症」といった少数の人々が不快感を感じる言葉が日常的に用いられることとなるのです。「自由」という言葉の真義を勘違いしている人がいます。「自由」とは【偽りの平和主義と戦う 第3回】で述べたように、「個人の自由と責任を重視するイデオロギー」のことで、「責任」とは「他人も同じように持っている自由を侵さないこと」というのが含まれているのです。それを後者の意味を考えずにただ気まま勝手に行えると信じてきた人が、米国の右派、そしてトランプ支持者には少なからずいるのではないでしょうか?!
ポリコレは、多数派と少数派が共存する社会に必要な概念かと思います。
それに、右派は一般に「米国の伝統的価値観を守る」と自称していますが、よく考えてみれば、米国に伝統的にあるのは、米国先住民の文化や価値観のはずで、本来尊重されるべきなのは彼らなのです。でも、ポリコレはそれだけでなく、後から入ってきたヨーロッパやアフリカ(※これに関しては「強制的に」)の人々の価値観も全部含めて平等に寛容に認めるというのが基本義です。その点で、マジョリティ(多数派)を抑圧するというのは、彼らの錯覚であり、かつてヨーロッパ系が幅を利かせていた時代に回帰しようとする動きにもつながるのではないでしょうか。
そうした動きはあるべきでなく、それを止めるためにもポリコレが必要なのです。
4.自由と民主主義の暴走、そして物語は最悪の結末を迎えた
たびたびのトランプ大統領の行動は、ポリコレを支持する立場から批判されました。特に、イスラム教徒の入国禁止政策により、世界は彼を白い目で見ることになりました。それでも、2019年までは大小混乱有りつつも、米国は世界の大国として安定を保っていたと僕は見ます。
しかし、2020年は違いました。その年に起こった2つの出来事が、ポリコレの歴史、そして人類の歴史に一つの転換点を与えたようです。なお、今から挙げる2つの出来事には両方ともCOVID-19の流行が関わってくるのです。
1つはジョージ・フロイドの死です。米国中西部ミネソタ州の都市ミネアポリスで、一人の黒人男性が、人々の目の前で白人警官に首を長時間押さえつけられて死亡しました。なぜ警官がこのような行動をとったのか、これは明らかに警察の業務履行のためではなく、人種に関わる偏見があるはずだと、一定多数の人々が声を上げ、町を行進しました。この抗議運動が盛り上がったのは、人々のいまだ根強く残る人種差別に対する不満だけでなく、COVID-19の流行による行動の制限へのいら立ちがあったと一般に言われています。
トランプは人種差別主義者でも白人至上主義者でもありませんが、ただそれにしてもこの問題に対する関心は低く、むしろ抗議運動に乗じて起こる暴動への対応にだけは夢中でした。それにより、人々のいら立ちは最高潮に達し、ポリコレの再興運動も広がってきたと思います。
そしてもう1つはお分かりであろう、大統領選挙です。トランプは2期目を目指して共和党から再出馬しましたが、野党民主党からは、オバマ前大統領の副大統領であったバイデンが出馬しました。そして、今度はトランプのポリコレへの挑戦・打破の姿勢に対していら立ちを覚えた人々がバイデンに投票し、結果4年前とは異なる、バイデン勝利となったのです。
しかし、トランプの支持者からしてみれば(もちろんトランプでなくても)、それは受け入れられないことです。トランプは、選挙の不正を訴え、多くの裁判所に提訴し、法廷闘争に出ようとしました。そして、その支持者も彼を信じました。ところが、彼の不正選挙主張には、具体的根拠に欠け(ナバロ報告書では根拠が挙げられているが、ワシントンポストが反例を示している)、訴えは全て却下されました。
そして、彼らの最後の手段は、選挙結果を最終的に集計する連邦議会議事堂を占拠して、革命を起こすことでした。米国独立宣言には、政府が国民を裏切り、本来の機能を果たさなくなったとき、国民は政府を打倒して作り変えることができるという考えが記されていました。これはロックの革命権に基づくものですが、トランプ支持者たちは、議事中の連邦議会議事堂へ押し寄せて、建物内に入り、そこを占拠したのです。これが、歴史に名を残すことになるであろう「連邦議会襲撃事件」です。
でも、トランプの支持者は確かに国民ですが、革命を起こす権限はありません。なぜなら、先ほど言った通り、彼らの多くは自由の真義を理解していないからです。大げさかもしれませんが、彼らはかつてポリコレによって今まで占めていた多数派の地位を追われ、その後平等ある権利を目指すポリコレ社会において、自分たちの自由が制限されている(実際は単に責任が明確になっただけ)と錯覚し、そしてトランプをポリコレ打破を訴える者として見てそれに魅了され、彼を神のように無条件に信じ、盲目のまま連邦議会に突入したのです。
別に彼らは心の底から米国における少数派を差別し、排除しようとしたわけでもありません。トランプも「歩け」の演説がまさかこんなことになるとは思っていなかったでしょう。でも、そこに危険があります。
人は、単独で凶悪犯罪を犯すことは普通はできません。それは、日本人でも米国人でも同じことです。そこには、ポリコレを始めとする、守らなくてはいけない社会の「法」があり、その「法」は法律のような成文法であれば、慣習や、ポリコレのような最近できた文化風潮も全て含みます。しかし、人が同じ目的を持った大勢の人たちと組んで組織を作り、その後組織の結束が強化されると、その組織内では、社会の「法」が通用しなくなるのです。
連邦議会議事堂に侵入した人々は、「熱狂的な」トランプ支持者だと報じられましたが、それでも彼らは普通の一般人です。普段は平和的な家庭で生活を営む人です。一人の熱狂的トランプ支持者がいても、彼だけでは単独で議会に乗り込むことはできません。しかし、度重なる集会などで、自分たちの人の多さを感じたり、、多くの希望や目的を他の人々と共有すれば、彼らは自分たちがトランプ支持の「組織」の一員だと気づくようになり、その「組織」の力を実感できるようになります。そして、先ほど言ったように、このような「組織」内では、ポリコレを始めとする社会の「法」を守る感覚が麻痺し、通用しなくなるのです。ですから、あんな暴挙ができる訳です。
そして、今論じている2020年~2021年のトランプ支持者の様相は、1930年代のドイツに非常に構図が似ています。人々が、共通する課題に直面して(世界恐慌⇔COVID-19流行)、抑圧されていると感じた時(ユダヤ人が豊かに見える⇔ポリコレ)、彼らは自分たちが考える希望や目的を共有する組織を、一人の指導者(ヒトラー⇔トランプ)を迎えて作り(ナチ党に投票⇔トランプ集会)、そしてその組織内では、従来守るべきであった「法」、特に政治的な妥当性、つまりポリコレなどを守ることが通用しなくなり、犯罪(ユダヤ人虐殺⇔連邦議会議事堂襲撃)を犯せるようになるのです。
でも、その「犯罪」に参加したのは、ドイツでも米国でも、一般的な民衆だったわけです。そう考えると、「組織」が人々を豹変させる恐ろしさ、「ポリコレ」を放棄することの恐ろしさが見えてくるのではないでしょうか。ポリコレが通用していれば、そんなことは絶対に起きなかったはずです。
そして、両者ともに最悪の結末を迎えました。連邦議会襲撃事件では、議会に侵入したトランプ支持者の間で死者が出ました。亡くなった彼女は、多分「一般的な」トランプ支持者で、日常的にもよく出会うような女性だったのだろうと僕は考えます。何が「最悪の結末」なのかと言えば、それはトランプがこれをきっかけに敗北を認めざるを得なくなったことでも、議事堂の貴重な財産が破壊されたことでもなく、反ポリコレを始めとする運動がどんな国でも一般的な人々を犯罪者に豹変させるということが証明されてしまったことです。
5.ポリコレの弊害、言葉狩り、言論統制、…
前章では、ポリコレが社会に通用することで、法を守る意識が身につき、ファシズムにならないようにするための防波堤になると僕は考えました。
しかし、そもそもなぜポリコレに疲れる人々が、米国右派内で生まれたかと言えば、それはポリコレの体質に由来します。
まず、ポリコレは、第1章で挙げたような変更前の言葉を使い続けることを忌避します。ですが、言葉の個人の使用は、当然自由に行いたいという人間の本能は、自由だとか責任だとかを論ずる以前に存在します。
また、ポリコレの風潮に乗っかった人が、暴走する危険性もあります。例えば、様々な人種の子供が写った写真があったときに、その中の白人の子供が黒人の子供の頭を押さえつけているように見える構図だとして批判の声が上がったことがあります。でも実は、恐らくこのように写ったのは偶然の構図であり、批判は当たらないとのことが真相でした。このように、「少数の文化や人種、宗教を守ろうとする動き」は却って人々にこれらの「違い」を敏感に意識させ、社会にぎすぎすした雰囲気を逆に与えてしまうことにつながるのです。
そうなってしまえば、これはポリコレの基本義から逸脱することになるもので、よくないことです。
そんなことにならないよう、ポリコレを変革する必要があるのではないでしょうか。
前章でも述べた通り、ポリコレはファシズムなど全体主義への防波堤となる一面がありますから、社会にとても必要で、これらの弊害を理由に放棄できるものではありません。だからこそ、保守派にも受け入れられるような柔軟なポリコレも必要なのではと思います。
ではどのようにそれを創造していくのか、それは各国の人々次第です。今、米国では分断がかつて以上に広がって、保革文化戦争などとも言われています。その分断を止めるためにも、ポリコレを柔軟な形にするために、両者一堂に会して、議論をすべきなのではと考えます。
ポリコレはそもそも全ての人に受け入れられるべく作られた考え方です。ですから、今のポリコレを何らかの形に変容させることができれば、ポリコレの理想体が作られ、米国の分断が解消するのではないでしょうか。そんな希望的観測を持ちつつ、今回はここで終わりにしたいと思います。
(2021.5.8)
6.関連リンク
Wikipedia内
7.注意
第4章内では、構図が似ているとして、トランプとヒトラーを同時に挙げたが、トランプがヒトラーのような独裁者で、民主主義を否定する者であるわけではない。問題なのは、トランプのような組織の指導者というよりは、それを求める一般的な民衆が、組織によって暴力化することである。
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