2021年6月30日水曜日

論破するって何?【未来ノートコラムA・第3回】

 「論破」という単語を聞けば、みなさんが真っ先に想像するのは、現在YouTubeやテレビやらで圧倒的人気を誇り、2ちゃんねる創設者として知られるひろゆきこと西村博之氏でしょう。彼は、「論破王」という異名を持っている通り、他の人を論述などで言い負かすという、誰もが一生に一度はみんなの前でやってみたいような話術に長けていて、「論破」のための本まで出しているのです。

論破とは、相手の主張する説や主義などを、自分が駆使する論述などで、だんだん矛盾を引き起こさせ、最終的にその矛盾を突いたりなどして、相手を口が開けなくするようにする話術の事です。

今回は、その「論破」について少し考えてみようと思います。


まず、大前提として、われわれ日本社会では、言論の自由が保障されていますね。普段、政治や国家とは関わりのないことを、例えばはやりのアニメやゲームだったり、スポーツや芸能、ネット社会のことだったりすることに関して、様々な意見を互いに出し合い、どっちが正しくてどっちが間違っているなんてことを議論するのは、恐らく富に恵まれている国なら、どこでもできるはずです。

しかし、政治的話題になると、例えば「政権寄りの主張」と「政権批判の主張」の2つに議論が分かれることがあります。ところが、言論の自由がない国だと、国家がその議論に介入して、「政権批判の主張」を国家の権力を使って封じ込めてしまうことが多々あるのです。

「言論の自由」が維持されるためには、まずは「正しい」「間違っている」に関わらず、どんな言論も受け入れられるべきです。「正しい」言論だけを受け入れて、「間違っている」言論はそもそも社会に害をなすものだから、最初から排除してしまってもいいのではないか、と思い方もいらっしゃるかもしれませんが、そもそも「正しい」「間違っている」の区別は、自明なはずがなく、これも大勢の人が議論をすることで後から判明することなので、議論以前に正誤を判別するというのは不可能なのです。分かりましたか?

そして、このように、正しい意見も間違っている意見も、社会に共存してある状態を、言論の複数性があると言います。この複数性がある状態だからこそ、日本社会は、自由に物が言える、民主主義社会であるわけです。

しかし、どんな言論も一概に受け入れていいわけではありません。民主主義社会でも、排除されるべき言論が一つあります。

それは、「全体主義を主張する言論」です。

もし、全体主義を主張する言論があれば、それは民主主義社会の中で、まるでがん細胞のように、次々と他の言論を倒してゆき、最終的に、その社会は、その「全体主義の言論」だけになってしまい、結果言論の自由が保障されない「全体主義社会」になってしまうのです。

だから、全体主義を主張する言論を認めるというのは、自分の体にがん細胞を移植することと同じくらい危険なことで、特に全体主義のせいで痛い目にあわされたドイツでは、全体主義的政治活動が禁じられています。

ちなみに、これを「戦う民主主義」と言ったりします。

では、振り返って、「全体主義を主張しない」普通の言論はどういうものかというと、それはどれも共通して「互いの意見を尊重しながら、社会をより良い方向に向かわせて行く」ことを目指しています。ですから、普通の言論がある社会では、どんな異端な言論でも、社会を破壊するようなものでない限り、少なからずそれを主張する人がいる、共存しているのです。

その上で申し上げますと、たびたびある人の主張する意見が気に入らないから、その人の人格まで否定するという事例があるんですよね。例えば、

「A氏は消費増税を主張している。しかし、これでは国民の消費が落ちて、結果日本経済がダメになってしまう。そんなことは幼稚園児でも分かるはずだ。Aは頭が岡しいんじゃないか。」

「ジャーナリストのB氏が言うには、我らがC首相は人種差別被害者を見殺しにしているという。そんなはずがあるだろうか。Bは嘘つきだ。Bがこれから言うことも全部嘘だ。」

とか(あくまで架空の事例)です。

しかし、我々が自由な言論社会で議論すべきことは、「他人の人格」ではなく、「その意見が妥当か否か」ということを基本として論ずるのが理想なんですよね。たいてい、他人の人格をも否定するような発言は、自分の信じていた事柄を否定されたゆえに興奮して、つい感情的になって発してしまうという経緯があると考えます。当然ながら、感情的な議論は、正しさを見つけ出すのが、より困難になります。自分も相手もいい気になりません。

そしてもう一つ言いたいのが、「論破」することが、必ずしも良い議論にはならないということです。

論破、というのはいつ成功するのか、と言えば、それは「相手を何も言えなくすることが出来た」時です。つまり、相手の口からそれ以上相手の意見を言えなくしたときに、その論客が相手に勝利するのです。

でも、果たしてその「勝利」した論客が、正しいというわけではないと思うんですよね。

たしかに、論破された方は、それなりに議論に穴があって、そこを突かれたわけで、物を言えなくなったのでしょう。しかし、論破が発生したことによって、議論が終了しても、論破した方の意見が正しかったとする保証はどこにもありません。偶々論破された方が指摘しなかっただけで、実際はもっと論破する側の意見に巨大な穴があるかもしれません。

そもそも、論破というのは、いかに自分の主張を正しく”見せる”か、というもので、”証明する”方法ではなく、真剣に物事の真理を追究したいのなら、それは一番避けるべき手段です。ただしディベートなどには有効な手段でありそうです。

そもそも、論破が発生した時点で、相手が議段から退場して、議論が終了、もしくは振出しに戻ってしまうので、「論破」は議論を破壊する手段なのかもしれません。


もし、あなたが「自分の意見の正しさを証明したい」「他人を鮮やかに論破したい」と同時に思うのなら、その2つの希望は両立せず、どちらかを捨てるべきです。論破した時点で、残念ながら改めて自分の意見を「正しく」証明するのは二度手間になり、結局意味がないのです。それに、議論をする余地を作っておくことが、自由な言論社会において重要です。

みなさんも、これを読んだことを機に、改めて「議論」「批判」「論破」「正しさ」などの、途方もないような言葉について、じっくりと考えてみてはいかがでしょうか。

(2021.6.30)

前回:見えない全体主義の心

次回:仲間を増やそう

2 件のコメント:

  1. 本当にその通りだと思いますね。
    民主主義が健全に発展するためには、自由な議論が大切だけど、その自由というのは、堕落や欲望の自由ではないんですよね。
    例えば、護憲派と改憲派が言論戦をするとして、それは、あくまでもそれは「平和を求める」土台の上での論争でなければいけないと思います。平和のために9条を守ることが大切だと訴えている人と、平和のために9条を改正すべきだと訴えている人。それは方法論が違うだけで、双方ともに、「国をよりよくしたい」と、考えているなら、目的や方向性は同じになります。その上での自由な議論は民主主義をより良い社会にしていきます。ところが、面倒なことに、邪心や、悪い意図をもって、(例えば平和憲法を利用して他国の侵略を誘発したい、という意図をもって、護憲を訴えてくる人が出てきたり、あるいは、逆に、他国を侵略したい、という意図を持って改憲を訴えてくる人が出て来たりする。)、言論戦や言論誘導をしてくる人が増えてくると、それが、民主主義が崩れる原因となり、そうした状態は、衆愚政治と言えると思います。衆愚政治というのは、独裁者による全体主義の前段階でもあるように思います。民主主義は、方向性が狂うと、国全体が危険にさらされるような恐ろしい面もあるので、教育によって、建設的な議論やディベートをできる国民が育てば、民主主義は守られると思います。こうしたことを考えている若者がいるのをみると、日本の未来も心強いですね

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    1. コメントありがとうございます。
      「戦う民主主義」的な考え方では、こういった写真や悪い意図を持って言論誘導をする人は、規制されるべきだというのがメインだと思うのですが、では結局その「規制」を誰か特定の人(例えば、警察?選管?民間企業?)が行うと、やはり運用が恣意的になってしまったり、あるいは主観的になるかもしれません。しかし、だからと言って規制しないわけにもいかず、その2つのジレンマのバランスを取るのが、民主主義の難しいところだと考えます。いずれにせよ、きちんとこれらを運用しないと、民主主義が崩壊してしまいますから。

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