2022年6月9日木曜日

【持続的平和に資する 第1回】武器と他傷心理

今年2月24日、ロシアがウクライナに侵攻した。これほどの規模・期間を有する主権国家同士の「戦争」は、21世紀に入ってなおなかなか無かったものであり、世界を驚嘆させたと同時に、我々一般世界の庶民はこれを改めて「平和」に対して考える機会としている。今年の8月15日は例年のそれ以上に深い追悼と、裏では白熱した議論が行われるだろう。

それに先立ち、私も改めて「世界平和」の達成のプロセスを整理したい。

まず、日本では8月15日の少し前、8月6日と8月9日に話題が上がることが推定される核兵器の削減について述べていこう。

日本は、先日発行された核兵器という兵器を全面的に禁止する国際条約「核兵器禁止条約」の批准を行っていない。理由は簡単だ。日本は米国の「核の傘」に依存している。そんな国が核兵器禁止条約に加入してしまえば、間違いなく顰蹙を買うこととなってしまうだろう。そして現に、少なくとも核兵器禁止条約による核兵器削減と廃絶とは実現しなかろうと思っている。それは、国連常任理事国を始めとする世界の核の大大多数を所持する核保有国が批准するはずがないからだ。更に言えば、いずれの核保有国も現在直接対立している仮想敵勢力というものも存在する。時代は「新冷戦」とも言われている。

だが、拡散を防止するという点では本当に役に立っているのかも知れない。核兵器禁止条約とか関係なく、今まで南米やアフリカの一部地域、モンゴル、中央アジアを始めとした地域ごとの「非核地帯」の設定の取り組みは今まで行われてきたが、核兵器禁止条約は加入と同時にその国が実質的に「非核地帯」となる。そういう意味では、核兵器禁止条約は世界平和に貢献する割合は高いのかも知れない。

常任理事国という世界の中心の立場にいるべき国々の関わる大戦争は珍しいものだったが、一方で中東地域やアフリカの一部地域など「慢性的に」紛争が勃発しては多くの死傷者を出すような、民族・宗教が関わる集合体同士の根強い対立が起こっている地域での紛争・衝突は残念ながら「日常茶飯事」に発生している。そんな「日常茶飯事」な地域紛争で大量破壊兵器が「日常茶飯事」に使われることはあってはならない。そういうところを現実的にも守っているのが核兵器禁止条約の現在なのだ。

しかしそれが、米国が…中国が…ロシアが…あるいは日本が……という話になって来ると、また話は違ってくる。いずれも世界のルールを牛耳り、あるいはそれに深く関わっている国々であるが、過去に冷戦を経験した米国とロシア、そして次なる新冷戦の時代の主役になるであろう中国は、実質的に国際連合の組織を超越する権限を備えている。今回のウクライナの戦争での国連安保理の機能不全に驚いた人は少なかろう。これらの国々は、民族の差異でも宗教の差異でもなく、政治的イデオロギーの差異に基づいて、国際社会で沈黙の対立を演じているのだ。それが具体的に何か、そして何故かは次回以降に述べるとして、「戦争」を導くような因子、すなわち大国間同士の対立を本質的に除去するためには、政治的イデオロギーの差異の解消というのが最短ルートとなるだろう。

核兵器を含む大量破壊兵器の削減・廃絶、あるいは軍縮政策は、平和をスローガンに掲げる人々にとっては一見喜ばしいことに聞こえる。だが、それは短絡的な平和にしか過ぎない。これらの一見平和に見える政策は、冷戦当事国の互いの手の内の探り合いという忌まわしき所業の末に生まれた偽善的な成果でしかない。そしてそれらは、また当事国間の不協和音が生じた時に、ちゃぶ台を返すかのようにあっという間に覆されてしまう。

それに対して、政治的イデオロギーの差異の解消という、冷戦や世界大戦の因子を根本から除去する手段を講じれば、世界はその前と比べてはるかに住みやすい世界となるだろう。大国同士であってもイデオロギーを共有し、信頼関係を築くことが可能になる。外交という場であっても性善説を採ることも出来るようになる。その戦争因子の除去の具体的手段、これもまた次回に説明を回すとして、私はこれらの戦争因子の根本的な除去により生まれた「住みやすい世界」の状態を、持続的な平和と言いたい。このような世界は、世界がまたイデオロギー対立により分裂することがないように設定されている。だから、持続的であり不可逆的なのだ。

米国の銃規制反対論者はよくこう言う。「銃が人を殺すのではなく、人が人を殺すのだ。」と。その舞台を地球全体と捉えた時にも同様のことが言える。「大量破壊兵器が人を殺すのではなく、人が人を殺すのだ。」と。この場合の人を殺す人とは、政治的イデオロギーの差異により戦争を起こすような人である。こういう「殺す人」を除去する(犯罪を減らす/政治的イデオロギーの対立を防ぐ)のが問題の本質的な解決に導けるというロジックだ。だが、前者の場合はその「本質的解決を導く」のには限界がある。この場合の「本質的な解決」とは、「犯罪ゼロ」を意味する。しかしその目標がいくら崇高なものであっても、80億人の人類から犯罪というものを除去するのは数量的に難しいというわけだ。だから、その代わりに、出来るだけ犠牲者を減らそうと考えて、米国においては、より殺傷能力が高い「銃」は規制されるべきだ、と私は考えている。

でも世界の国は200あまり。人類個々人に対する目標達成の難易度と、持続的平和の達成の難易度は、数量的な面を考えても、大きく異なる。犯罪を減らすのを諦める代わりに、より犠牲者を減らすために銃は減らそうというのは仕方ないが、戦争を減らすのを諦める代わりに、より犠牲者を減らすために核兵器など大量破壊兵器を減らそうというのは早まり過ぎだ。


本当に恒久平和を目指したいのなら、軍縮とか核兵器削減とかを中心に論じるのではなく、世界大戦を導くような因子を本質的なレベルまで除去しようという試みを論じるのが先である。前者は表面的な成果のみ求めようとする理想主義に過ぎない。本来あるべき現実主義とは、後者の方を指すのだ。

ではその戦争因子の除去手段とは何か?それは「民主化」である。

(2022.6.9)


第2回を読む>>


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