2022年4月17日日曜日

純粋な正しさへの道【未来ノートコラムA・第14回】

今年2月に始まったロシアによるウクライナ侵攻の戦争は長期化している。それに対して、ロシアが戦争を始めたことを糾弾する反戦デモなどの反戦活動が日本を含め世界各地で催されている。みな「戦争反対」などと声を上げている。あるいは、この機に改めて「戦争は悪だ。絶対悪だ。」ということを啓発しようとしている人もいる。

ただ、この「戦争は絶対悪だ」などというある種の「命題」を、何か学術的なアシストもなくただただ唱え続けるのは、私としては抵抗がある。それは私が戦争を肯定する者だからとかではなく、あらゆる命題・言説に関して、これらを肯定する場合、全ての人が一旦その根拠を知ってみることが必要だと感じているからだ。つまり、ここでは戦争はなぜ絶対悪なのか、という理由を記していき、更にそこから発展して議論を深めていきたいと思う。


なぜ戦争が起きるのか

戦争は悪だと言っても、これまで人類は誕生以来幾度となく戦争を繰り返していたわけで、言わば人類と戦争は切っても切れない関係にあることは明らかだ。そうなると、元来人類は罪な種族だという解釈も可能だが、一方で少なくとも前近代までの戦争は人類に進歩を生み出してきたことにも気づかされる。

火薬や機関船だって、もともとの需要は戦争にある。それがいまや、戦争とは無縁の平和な日常生活に浸透している代物さえも存在する。また、人類の思想の進歩も、戦争によって為されているという歴史解釈も、私はしたことがある。前近代においては、宗教がその教徒により構成される軍隊を作り、他の宗教を制圧するようなことも行われたし、近現代の戦争は、ナチズムや社会主義などのイデオロギー的な対立が深く関わってきている。そして勝った者がその後の人類の歴史を彩ることになったのだ。

人類の歴史の中で、規模の大小に関わらず、戦争といえるものがやんだことは一度もない。太古の石器時代からこの記事が読まれている今現在まで、戦争の歴史が途切れたことは本当にない。そもそもなぜ太古から戦争という行為を人類は営んできたのか。例えばこの日本の地には、弥生時代の遺跡で殺傷された人骨、あるいは明らかに防御目的で築かれた村の施設の跡など、戦争が行われてきたことを示す様々な証拠が発見されている。弥生時代を、人類文明の進歩段階で言い表すと、それは農耕が始まった時代ということになるが、つまり農耕生産物や清流を始めとする、生活に必要な富の偏在が、村や部族同士の衝突を招いた。

それが時代が進むにつれて、国単位での富の奪い合いということに発展していく。この場合、富とは領土や資源といったものに変化する。そして、前近代と近代の狭間で、戦争という人間の営みの形態が劇的に変化したことはない。戦争の近代化は別に戦争の本質を改めたわけではない。人類史上初めて世界を巻き込んで行われた第一次大戦、そして人類史上最大の戦争である第二次大戦、それらが引き起こされた原因を辿っていけば、結局は富の偏在を巡る紛争というところに収斂する。

少なくとも、人間が生きる世界に、国があり、領土があり、資源がある限り、国家間の紛争を食い止めることは難しい。豊かさへの欲望、妬みが、人々を殺傷行為へと駆り立てる。近代においては、国家主義やイデオロギー的な主義主張といった事情も絡み合って、その感情が増幅されるのだ。残念ながら、このままでは人類は未来永劫戦争をし続ける。

だがしかし、戦争を防ぐ手段は無くはない。どうすれば戦争を避けることが出来るのだろうか。

それには、人間が常に理性的である必要がある。

国家間の紛争をも食い止めることが出来るような人間の理性的な状態とはどのような状態か。私の思わくは、その国家同士が互いに高度に民主的な政治体制を持っていることで、それがその国の国民に戦争を留める理性を備え付けられるのではないかということだ。簡単に言えば、民主国家同士は戦争をしない、と。


民主的平和論

ここで言う民主国家とは、男女の普通選挙制、複数政党制、報道・言論の自由を中心とする基本的人権、これらが全て尊重されている国家を指す。

その上で考えてみよう、民主国家同士は戦争をしないのはなぜか。

まず単純に、民主国家同士は掲げている国家のイデオロギーが同一であるため、近代の戦争や軍事的対立に見られるようなイデオロギーの差異による対立というある種の戦争発動条件が存在しない。相手国のイデオロギーは、場合によっては自国の政治体制より優れており、それが自国に流入すれば国家の根幹が揺らいでしまう恐れがある。しかし民主国家同士の場合、そもそも相手国が自国の体制に脅威を及ぼすようなことがないため、戦争を仕掛ける理由がないのだ。

それに、民主国家では、国家の中で、理性的に政治問題に関して議論をすることが出来る環境がある。それは、国民主権の原理と報道・言論の自由によって主に保障されているものだ。これにより、もしある民主国家の指導者が他の国家、特に民主国家に対して戦争を仕掛けたとしても、他の人々を殺傷することに抵抗感を感じさせる倫理感を持つ理性的な国民により、それを食い止めることが可能になる。

他にも、互いの国家同士の情報が常にオープンな状態であることによる互いに対する不信感の低下、対外交渉能力の向上などが、民主国家であることで戦争を抑止できる原因になったりすると言われている。

恐らく、国家同士の戦争を半永久的に抑止することが出来るのは、これらの戦争を抑止する要素を持ち合わせた(リベラルな)民主主義的価値観しかないと、私は考えている。そしてここで一つ重要なポイントとして挙げられるのが、民主主義が近代以降の数ある政治思想のうちのたった一つにしか過ぎない訳ではないということだ。よく、非民主的な国家に対して国際社会や他の民主国家などが人権意識を高めるよう要求すると、その非民主的国家やそれを支持する人たちは、「他人へ己の価値観を強制するのはよくない。」との趣旨のことを言う。そして更に「自分たちは自分たちの価値観(非民主的な政治思想)を他国に強制することはない。」とも言う。だがそれは偽善だ。民主主義的な価値観は、決して他の非民主的な思想:民主的な要素を持ち合わせない思想(ex.共産主義、ファシズム、開発独裁、鄧小平思想など)と同列に語られることはない。なぜなら民主主義とは「他の思想や価値観を語ることを許す」思想だからだ。コンピュータのソフトウェアに例えるなら、数多ある政治思想が、WordやExcellなどのアプリケーションだとしたら、民主主義的価値観はそれらを制御するオペレーティングシステム(OS)のようなものだと私は思っている。

現代の(リベラル)民主主義的価値観がこのような至上的な価値を持っているからこそ、戦争を食い止めることができるのではないだろうか。将来の戦争を抑止する鍵となっているのが、まさに民主主義の思想なのだ。


個人主義と集団主義

とは言うものの、では本当にその民主主義やらリベラル的価値観やら、あるいは人々の人権意識などの倫理感やらが至上的な価値を持っているのか、つまりこれらの民主主義の思想が絶対正義だと言えるのか、というところも疑ってみる必要があると私は思う。

例えば、いくら報道・言論の自由を尊重すると言っても、それで私人のプライバシーを赤裸々に報じてしまうのは不合理なことだ。当然ながら、自由には権利と責任が付いてくる。その権利は、他人も同様に持ち合わせる自由を侵さないところまで認められる。報道・言論の自由は、他のプライバシーの権利を侵さないところまでの自由であり、それ以上のものは権利の濫用や公共の福祉を侵していると言える。

個人のこういった自由や権利を尊重するのが個人主義であるのに対して、それを集団の秩序のために制限するのが集団主義である。理想的な人間社会では、どちらの考え方のボトムラインも満たされているような、個人主義と集団主義との間の均衡状態が重視される。だから、個々の自由を重んじる個人主義こそが至上的な価値を持っているというのは誤りなのだ。

更に言えば、その「個人主義と集団主義との間の均衡状態」には、様々な幅がある。国柄や宗教、文化、時代によっては、少し集団主義的な状態に舵を切った方が合理的な統治が出来るというところもあれば、その逆もあり得る。そして近ごろのコロナ禍は、それを考える上ではぴったりの話題である。COVID-19という疫病には、多くの国民が同じ目標に向かって同じ取り組みをすることで対峙しなければならない。平時よりも、個人の利益より集団の利益の方が重視される。だから、日本では緊急事態宣言などを発出することによって、一時的に個人の自由を抑えて、集団の利益を優先したが、これは政治倫理的にも理に適った措置であると思う。

このように、集団主義など、国家や地域への貢献意識を高めることは、必ずしも悪いことではなく、むしろ集団の構成員に共通して降りかかる災厄に対しては非常に有効である。これも民主主義の範囲内の話なのだ。

だが、そう考えられるのも、集団主義から個人主義にいつでも舵を戻せることが出来る状態が整っている必要があるという前提があるからだ。集団主義のエスカレートは特に危険で、過激な国家主義やファシズム、全体主義、そして戦争を招く。戦後の日本の保守派は反共的な経済資本主義が台頭していたが、近ごろはそれに代わって国家主義的な価値観を持つ人々が保守派の中で存在感を表してきている。もし彼らが理由もなくその国家主義的な価値観を他人に強制しようとなれば、それは最悪、民主主義の前提の破壊に繋がる。

国家主義は、それが至上的な価値を持つことを証明する根拠を持ち合わせていない。だから、何か理由なしに国家主義を広めようとする行為に、その根幹となる正当性は存在しない。これは、リベラルな民主主義的価値観との大いなる差異だ。


物事にはそれが正しい場合と正しくない場合がある。だけど、ほぼ全ての場合において正しいと見做せるような、ほぼ純粋な正しさがあるはずだ。それを探求するのは、倫理・哲学において非常に重要な要素となっている。そして、今自分が正当性を持たせて主張していることに対しても、その正当性を疑ってみる。それは、その純粋な正しさに適合しているだろうか。理性的な考え方だろうか。理に反していないだろうか。どこまで正当性を保てるのだろうか。人々は自分の主張に大きな根拠を持たせるべきだ。

(2022.4.17)


前回:ロシアのウクライナ侵攻に対する諸考察

次回:ロッテ佐々木朗投手と白井球審との件について


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