2021年11月28日日曜日

45年後……【ドラえもん傑作ファイル・第8回】

比較的名の知られていない本作品だが、後期作品の中で、『ドラえもん』作品全体の神髄に迫っている名作であると思う。あらすじを紹介した後、それについて考察する。

●基本データ
初出:「小学六年生」1985年9月号
単行本:「てんとう虫コミックス『ドラえもん プラス』」第5巻第21話(最終話)
大全集:第13巻第66話
アニメ化:2005年、2009年「45年後……未来のボクがやってきた」

▲以下ネタバレ注意!


1.あらすじ

 年に二度か三度あるのだろうか。学校帰り何があったのか、のび太が大反省する日が今年もやって来たという。のび太は決意する。将来皆に尊敬される立派な大人になるべく、今日からけじめのついた生活をちゃんと送ろう、と。すれ違ったジャイアンとスネ夫に対しても、野球の誘いを断る。のび太はその理由も伝えるが、すると彼らは、「できもしないくせにむりしちゃって」などと、彼の決心はそう何日も続かないと揶揄う。

結果のび太は意気消沈。何日続くどころかほんの数分で決心は途絶えてしまった。取り敢えず、家に帰って昼寝をしようと帰宅したところ、なんとのび太のおやつが何者かによって食べられており、他にも昼寝専用座布団や、愛漫画も出しっぱなしになっていた。もう嫌だと、のび太は心を休めるためにもう一度外へ出て、自分の裏山の昼寝スペースへと向かう。

ところがどうだろうか。そこには見知らぬ中年の男が寝そべっていた。そして起き上がるなり、男はのび太の名前を呼んだ。なぜあなたが僕のことを知っているのかと、のび太は男に尋ねた末、彼は自分が45年後ののび太だと答えた。すると同時にドラえもんも45年前と45年後の二人ののび太の下に合流し、22世紀から仕入れてきた「入れかえロープ」をポケットから取り出す。45年後ののび太いわく、

そうね、なんていえばいいか……。遠い昔によんだ本をもう一度よみ返してみたい……。そんな気持ちかな。

と、45年前ののび太と心と体を入れ替え、小学生の姿になってもう一度だけ少年時代を過ごしたいとお願いした。現代ののび太は、それに応えて、その入れかえロープで二人入れ替わってみた。すると、45年後ののび太(外見:小学生)は、周囲の景色を懐かしみ、感激する。一方で、小学生ののび太(外見:45年後)は、大人になった後社会人としてちゃんとやっていけるか、つまり冒頭で思い描いた立派な大人に将来ちゃんとなれるかどうか気になって、45年後の彼に聞きたくなった。しかし気になると同時に怖くも感じたので、聞くのをやめた。

そんな中、空き地でジャイアンたちが相手チームと野球を対戦していた。小学生になった45年後ののび太は、何十年ぶりなのだろうか、ジャイアンたちのチームに加わる。さすがに大人になれば運動神経は改善しているだろうと思うかもしれないが、加わった結果、打てば三振、守ればエラーを連発と、少しも小学生時代と変わらない絶望的な状態だった。

当然ながら、ジャイアンズは敗れる。敗北の責を問われるも、45年後ののび太はこれからもこの元気で頑張ってくれたまえと、ジャイアンとスネ夫を激励する。野球の帰り道、45年後ののび太は、(若かりし頃の)しずかと出会う。彼は彼としずかとの間の息子のノビスケが、スペースシャトルで月へハネムーンに旅立って行ったことを告げる。もちろん、しずかはのび太の言うことが理解できなかったが。

再び帰宅すると、早速のび太(45年後)は、玉子に叱られる。しかしのび太は玉子を見て思わず「若いなあ……」と呟き、そしてもっと叱ってと涙を流して飛びつく。のび助の帰宅後、夕食を食べれば、「この味!ママの味だ!!」と言いながら、料理を絶賛する。

食後、若かりし頃を満喫した45年後ののび太は、小学生の体を元ののび太に返し、再度入れ替わる。今日体を貸してくれたお礼をしなければと、宿題を代わりにやってあげようかと提案する。しかし、小学生ののび太は、自分でできるからと提案を断る。すると45年後ののび太は代わりにと最後にこう言う。

一つだけ教えておこう。きみはこれからも何度もつまづく。でもそのたびに立ち直る強さももってるんだよ。

そうアドバイスをして、45年後ののび太は、自分の世界へと帰っていった。机の前で、のび太は「少しのぞみがわいてきた」と呟く。


2.考察

a)『ドラえもん』の主題とは何か

この短編は、雑誌「小学六年生」に掲載初出されているが、当初は最終回ではない。しかし、藤子・F氏が体調不良で新作を描き得なかったとき、1989年3月、そして1991年3月に、小学を卒業する読者への最終回として、再掲された。2度も「小学六年生」の3月号に掲載されるということは、やはり人生の岐路において読んでおくべき作品なのだろう。

『ドラえもん』の最終回と言えば、圧倒的に知られているのは、『ドラえもん』最大の感動作と言われる『さようなら、ドラえもん』(三74.3/6.18/CW4.36)であろう。他にも、ドラえもんが未来へ帰ってしまうという体系の話で、単行本未収録の『ドラえもん未来に帰る』(四71.3/-/CW1.18)、『ドラえもんがいなくなっちゃう!?』(四72.3/-/CW1.45)の二作がある。しかし、私の個人的な好みとしては、こういった希望を感じさせるような体系の最終回の方が好きである。前に記事にした『具象化鏡』(六86.3/39.20/CW13.72)も、その一つである。理由は、これが『ドラえもん』という作品の主題に繋がるからだ。

『ドラえもん』という作品は屡々こう批判される。「何にも出来ない落ちこぼれの小学生のび太が、何でもしてくれるドラえもんにひみつ道具を貸してもらって、それに頼るだけで何の成長もなくさらに堕落する。おまけにクラスのアイドルのしずちゃんとも将来には結婚できる。」。なるほどそう言えばのび太は毎回のようにドラえもんからひみつ道具を借りて、好き勝手な事をし、嘘をつき、周囲の人たちを混乱させ、更にはしずかのお風呂にまで侵入する。後者に関しては、フェミニズム観点からアニメでの描写の廃止を求める意見もあると聞く。

ただ、私は少なくともこの作品が「何にも出来ない落ちこぼれの…」から始まるたった一文で語れるとは思わない。まず、『ドラえもん』はSFギャグと教育漫画の二面性があると信じている。SFギャグの要素と言えば、毎度おなじみのジャイアンの歌や、たまに登場する雪男や宇宙人、また先ほど挙げたしずかの入浴シーンなどもその域に入る。作品当初、ドラえもんは世界一のギャグ漫画と銘打っていたので、その割合が多かったが、アニメ化が行われる作品中期(1970年代後半~)になってくると、教育的な要素の割合も増えてきた。

教育的な要素と言っても、様々である。学校で習うような学術的な知識をドラえもんが教えるような『地球製造法』(三73.3/5.3/CW3.36)、『サンタイン』(三82.7/33.11/CW13.28)(物質の三態)という話もあれば、ギャグ面の割合を下げた友情的道徳的な話『ぼくの生まれた日』(四72.8/2.5/CW2.32)(こちらはなんと小学校の道徳の教科書に掲載されている)『森は生きている』(て81.1/26.12/CW19.21)、環境など社会問題を訴えた話『さらばキー坊』(四84.4/33.17/CW14.37)など、ジャンルは広い。

そんな中で、今回取り上げた『45年後……』は、当時の小学生が一年生の時から『ドラえもん』を読んだ総まとめといった位置にあり、今まで読んできた『ドラえもん』とは何だったのかを示す役割を持っている。のび太はこれまでいつだってドラえもんのひみつ道具に頼ってきては失敗していた。冒頭あの場面で、彼はこれまでの自分の行いを反省し、恐らくドラえもんに頼らぬ人間になろうと決心していた。この決心はすぐに打ち崩されるのだが、壮年期の彼自身の訪問という出来事によって、流れが変わった。

確かに、これまでのび太はずっとドラえもんの道具に頼り切って、自力で何か物事を行おうとすることを怠っていた。しかし、それで彼は成功したことがあっただろうか。のび太がひみつ道具の力を過信し、使い過ぎた結果、滅茶苦茶な結末が訪れ、彼自身が酷い目に遭う。これにはギャグも多く含まれているが、これが『ドラえもん』の定番であることに間違いない。ただこれに、作品に対する批判者が言うような「のび太がさらに堕落、あるいは全く成長しない」ということは含まれていない。この作品は連載型一話完結であって、のび太は読者の成長に合わせて彼自身も日進月歩成長している。この極めつけが、『45年後……』である。

45年後から来たのび太には、私はある程度の貫録を感じ得る。特に、彼の最後のセリフ「きみはこれからも何度もつまづく。でもそのたびに立ち直る強さももってるんだよ。」は、彼自身が長い人生45年間の経験を通じて、幾多の困難を乗り越え、強い心を勝ち得たことを感じさせる。別にのび太は成長しなかったわけではない。作中で、45年後から来たのび太は、ジャイアンとスネ夫を激励し、しずかにも話しかけ、親にも涙を流して抱き着いていた。そもそもなぜ45年後ののび太は、昔の自分を体験するために、小学生時代を選んだのだろうか。その理由は、彼の精神的な成長の原点が全体的にここにあるからではないかと私は考察する。

『ドラえもん』という作品の中で、何をしてもダメな小学生であったのび太は、突如として未来世界から来た得体のしれないロボット・ドラえもんや、友人であるしずか、ジャイアン、スネ夫、そして家族との交流を通じて、精神的に成長して大人になっていった。現実世界には、のび太のように何をやっても「ダメ」な人はいなかったと思うが、決して特異な存在ではないと思う。そうした少年の姿をギャグや教養面も交えて描いたのが『ドラえもん』なのだと私は信じている。


b)アニメ化に際して

この短編は1985年初出だが、発表されてから20年間近くアニメ化されなかった。その理由を、まだこの作品がアニメ化されていない段階(2004.9.3)で、ドラえもんファンであるおおはた氏は、未アニメ化原作を扱った自身のHP内のページで、次のように述べている。

 はじめに触れましたが、今回は主にてんコミ収録作品の中でアニメ化されていない話を取り上げました。しかし、最後に1話だけ、未収録作品について、突っ込んで取り上げてみます。それは「45年後……」と言う作品です。

 ……タイトル通りに45年後ののび太が、小学生ののび太の所にやって来る話です。ささやかながら、自分なりに未来に向かって生きてゆくのび太を描いた、いい話なので、なぜアニメ化されていないのか、以前から不思議に思っていました。

 しかし、考えてみれば、50代半ばという「オジン」ののび太の登場は、ある意味「ドラえもん」と言う作品全体の終局に近い話であると言えるのではないでしょうか。事実、本話は学年誌購読の最終号となる「小学六年生」3月号に何度も再録されています。連載の最後を飾るのに、ふさわしいと判断されたからでしょう。もっとも、初出は3月号ではなく9月号ですが。

 その点を逆に考えると、番組終了の予定もないのに「終わり」を暗示するような話を流すのは好ましくないと判断されたために、アニメ化されていないのではないでしょうか。本話がてんとう虫コミックスに未収録であるのも、同じ理由だったと推測できます。てんコミは、F先生御自身が収録作品を選んでいたいた作品集ですから、もし収録されたとすれば、F先生存命中に最終巻が出た場合に、その巻に入る可能性があったのではないかと考えています。

 もし、アニメ「ドラえもん」が最終回を迎えるのであれば、この「45年後……」を原作に忠実にアニメ化して最終話とすれば、丁度いいかもしれません。

おおはた氏の述べたことは見事に的中した。彼が上記の引用文中で著した考察として、①本作品の最終回性が当時の未アニメ化の原因だということ、②アニメドラえもんが終了するタイミングにアニメ化されるということ、③もしてんコミ発刊継続の場合に最終話として収録された可能性、この3つになる。まず、2005年4月に、大山のぶ代を筆頭とするアニメ声優陣は勇退して、新シリーズが始まったが、その前の3月の通常放送最終回に、この『45年後……』は原作通りにアニメ化された。また、原作漫画は、単行本『ドラえもん プラス』の最終巻である第5巻の最終話として、2006年に収録された(注)。

(注)その後、2014年に小学館は、てんとう虫コミックス40周年を記念して、『ドラえもん プラス』の第6巻を発行している。今となっては最終巻は5巻ではなく6巻なのだが。

一方で、この作品は記事冒頭でも示したように、2009年12月31日の大晦日特番でもアニメ化されている。尺は30分で、原作は10ページ前後なので、かなり拡大された力の入ったアニメ化となった。内容の追加や背景描写が良かったので、ここで少しこれも紹介しておく。

まず、冒頭でのび太が学校から帰るとき、そして最後の最後の場面までずっと通してある「もの」が映し出されている。そのある「もの」とはずばり「」である。そして、作中で45年後ののび太(外見:小学生)が野球を楽しんでいる試合中に、小学生ののび太(外見:45年後)は、その「川」の上流をたどって歩いていく。大人という立場を活かして、様々な世代の人と交流を行う。親から逸れた女の子や、その母親、そして川で川蝉の観察をする人たちや、忘年会を行うおじさんたち。最終的に、のび太は川の分岐点(流れと流れの合流点)に行きつく。

この時、「川」は人生、あるいは出会いを象徴している。川の周辺には老若男女様々な人がいた。45年後の自分と出会う中で、それと並行して様々な人生経験をしている人とも話を交える。ここでのび太は小学生ながら人生という長い旅のあらすじを窺うことが出来た。

他にも、原作ではあまり無かった、「のび太とドラえもんとの関係」も強調されている。帰宅した45年後ののび太(外見:小学生)は、玉子の作った夕食を食べた時に涙を流した。それに気づいたドラえもんは、それを両親に気づかれまいと、自ら後ろへズッコケた。この計らいに、夕食後のび太はドラえもんに感謝の意を示すと、ドラえもんは「ボクとキミの仲じゃないか」と応える。

最後の45年後ののび太からのアドバイス周辺のセリフにも、力が込められていて良かった。


c)他作品との関連

他サイトで面白いことが取り上げられていたので、ここではそれを要約して紹介する。

『45年後……』が発表された7年前の1978年の「小学六年生」3月号には、『あの日あの時あのダルマ』(六78.3/18.14/CW5.72)という作品が掲載された。その作中で、小学生ののび太が、ひみつ道具の効果によって幼児退行してしまった際、昔の幼児期のおばあちゃんとの思い出を回想するシーンがある。

庭で遊んでいたのび太は、転んで泣いてしまう。闘病中だったおばあちゃんは、それを見てのび太の前におもちゃのダルマを転がしながら、のび太が泣いていたら心配で寝ていられない、そして

ねえ のびちゃん。ダルマさんて えらいね。なんべんころんでも、泣かないでおきるものね。のびちゃんも、ダルマさんみたいになってくれるとうれしいな。ころんでもころんでも、ひとりでおっきできる強い子になってくれると………、おばあちゃん、とっても安心なんだけどな。

と伝える。それから程なくして、おばあちゃんは亡くなったという。このおばあちゃんの言ったことを回想し、この短編の最後で、のび太はこう空のおばあちゃんに向けて返す。

ぼく、ひとりでおきるよ。これからも、何度も何度もころぶだろうけど……。かならず、おきるから安心しててね、おばあちゃん。

つまり、このやり取りの中でのおばあちゃんの願いをずっと意識して、のび太は小学を卒業し、社会に出て大人になり、結婚してノビスケを立派に育て上げた末、小学生時代の彼の下に舞い戻ってきて、彼に「つまづくたびに立ち直る強さ」を持ち得ることを伝えたのだ。これは、のび太自身が45年間ずっとこの大切な強さ信念に持ち続けて精神的な成長を成し遂げたことを十分すぎるほど裏付けている。『ドラえもん』が、堕落し続ける少年の姿を描いたわけではないということを、しっかりと作者は示したかったのだろう。

もちろん、藤子・F氏が『45年後……』を描くにあたって、7年前のこの作品を意識した直接的な証拠はないが、何しろ、45年後ののび太は「遠い昔によんだ本をもう一度よみ返してみたい」気持ちで小学生時代にやって来たのだからねえ。


以上、『45年後……』という作品と、それにまつわる事柄についてさくっと書いてみた。一つお勧めすることは、季節は夏でも冬でもいつでもいいから、近所の川を、それもこちら側の岸から対岸まで簡単に見渡せるような川幅の川を、上流に向かって歩いてみよう。人に会えなくてもいい。少し川を意識して、散歩すると人生再発見があるかもしれない。

セリフの引用は、全て「てんとう虫コミックス」からのものである。三日後に来たる、藤子・F・不二雄生誕88周年を記念して、執筆した。おおはた氏のホームページからの引用は、都合により一部を「……」で省略している。

(2021.11.28)


前回:『ラジ難チュー難の相?』

次回:『スネ夫の無敵砲台』


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